メルマガ♯がんばろう、日本!         №265(20.9.2)

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「がんばろう、日本!」国民協議会

がんばろう!日本!! 国民協議会

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Index 

●検証不能な「やっている」感で積みあがった政治不信によって自壊した安倍政権

「ポスト安倍」をどう検証するか

●「安倍政権のレガシー」を主権者としてどう活かせるか 

その担い手を自治の実践からつくりだそう、

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安倍政治の検証を、民主主義の復元力の糸口へ

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【検証不能な「やっている」感で積みあがった政治不信によって自壊した安倍政権

「ポスト安倍」をどう検証するか】

安倍首相が病気を理由に退陣を表明した。「病気による辞任はやむを得ない」という空気に流されるべきではない。首相の辞任によって政府・内閣の責任も「なかったこと」になるわけではない。首相個人は病気で辞任するとしても、合議体である内閣は病気で総辞職するわけではない。主権者が選挙で選んだ政権を検証し、批判するのは民主主義の常識だ。

「内閣は、行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負う」(憲法66条)。その国会は、「いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」(憲法53条)。国会召集の要求書は7月31日に提出され、世論調査でも七割が早期召集を求めているにもかかわらず、与党は拒否し続けてきた。こうした問題をどう継承またはケジメをつけるのか。ポスト安倍候補には、国民への説明責任がある。

安倍首相は、この秋からのコロナとインフルエンザの対策にめどが立ったことを辞任の理由に挙げたが、六割近くが政府のコロナ対策を評価しない(NHK8/12)なかでは、国会論戦を通じて説明責任を果たすことが何よりも重要ではないのか。「病気が理由で正しい判断ができなくなる」「責任を果たすのが難しくなった」と言う一方で、「臨時代理をおかず、首相にとどまる」では、ガバナビリティーは「からっぽ」だ。アクセルとブレーキを同時に踏むような方向感の見えない場当たり的な施策は、かえって不安を増大させている。

安倍政権は、女性活躍、地方創成、働き方改革など、一年単位の政策課題をキャッチコピーとして使いまわすことで、「やっている」感をアピールしてきたが、検証不能な「やっている」感で積みあがった政治的不信の重みによって自壊した。

「安倍政権はそれまで、1年単位の政策課題を設定し、それを決定するというサイクルをひたすら繰り返すにとどまっていた。だが、森友・加計学園問題が明らかにしたのは、それぞれの政策の検証が必要とされる段階に入ったということであった。そして昨年夏の段階で、安倍政権は到底、こうした検証に堪えうるだけの実質を備えていなかったのである」(牧原出 「論座」2018/3/29)。人事によって官僚をコントロールし、反対者を排撃し、公文書破棄やデータ改ざんまでして糊塗されてきた「やっている」感も、コロナには通用しなかった。「一強」の実態は「強いリーダーシップ」ではなく、空虚な無責任連鎖にほかならないことが露見した。

コロナ危機で明らかになった政治の劣化状況は、安倍政治の帰結であり、その根底にある「選挙で勝ったのだから何を決めてもいい」という多数決民主主義の破綻にほかならない。

一方コロナ禍で、「安倍一強」の限界が実生活レベルで感じられるようになって、民主主義は多数決で決着をつけることではなく合意形成のプロセスだ、ということが人々の中で腑に落ちるようになっているのではないか。「声をあげれば変えられる」という小さな成功体験も、それを後押ししているといえるだろう。「声をあげる」とは異なる立場を否定することではなく、異なる立場でも合意できる共通点を探り出していくプロセスにほかならないのだから。

「安倍政治」の検証とは、多数決民主主義に代わる、議論による統治―立憲的デモクラシーへの糸口をつくりだすことにほかならない。

「ポスト安倍」もここから検証しよう。

安倍政治はPDCAのPは打ち上げるものの、Dはグタグタ(電通中抜きに典型)、Cは拒否だった。ポスト安倍候補はこれを継承するのか、それともケジメをつけるのか。例えば喫緊の課題となっている秋―冬のコロナ対策について、この半年のコロナ対策の検証をするのか、それなしになだれこむのか。コロナ対策と称する10兆円の予備費について、どう公開し検証するのか、しないのか。あるいは対策分科会の議事録を公開するのか、これまで通り非公開とするのか。

万人が納得できる政策はほとんどない。問題はその形成過程や執行過程、結果などが検証可能かどうか。それが、議論による統治への第一歩にほかならない。

アベノマスクやGo Toキャンペーン、電通中抜きなどの愚策は、野党議員が「行政事業レビュー」を徹底的に調べて明らかにした。各省庁がすべての事業の予算額、使途、支出先などについて公表する「行政事業レビュー」は、民主党政権の事業仕分けのレガシーである。民主党政権を徹底的に否定した第二次安倍政権だったが、当時の稲田・行革相が「よいものは引き継ぎたい」と残したという。ポスト安倍候補は何を継承し、何にケジメをつけるのか。

安倍政権の国会答弁や記者会見で横行したのが、質問にかみ合わない意図的な論点ずらしの「ご飯論法」だ。「責任を痛感」とは言うものの「責任をとる」は空語となった。

石川健治・東大教授は、Choose Life Project(8/28)で、安倍政治においては責任が薄くなっただけではなく、ベクトルが逆になったと述べている。国民に対する説明責任ではなく、ナチスの「指導者原理」のような「上向き」の責任。どちらのベクトルかが、民主的か専制的かのポイントになると。

説明責任とは対極の派閥の力学による後継選びなら、ポスト安倍はスタート時点からハリボテということになるだろう。

【「安倍政権のレガシー」を主権者としてどう活かせるか 

その担い手を自治の実践からつくりだそう】

 安倍政治の検証を通じて民主主義の復元力の糸口を作り出す。こうした問題設定から安倍政治をどう検証するか。例えば田中信一郎・千葉商科大学准教授は、こう述べている(ハーバービジネスオンライン8/30)

「安倍首相の3つのレガシー

 安倍首相の第一のレガシーは、憲法改正を主たる課題と主張する政治家を、空想的で非現実的な政治家としたことです。安倍首相の力と熱意をもってしても、憲法改正の入口にすら立てなかったからです。今後、少なくとも憲法の基本原則を変更しようとする改正は、非現実的な政治課題となります。安倍首相ですら実現できなかった改正を、より劣悪な状況の首相が実現できると考えるのは、あまりに空想的です。

安倍首相の第二のレガシーは、従来のものと根底から代わる、新たな経済思想と政策の議論を重要な政治課題としたことです。安倍首相の在任期間と動員した政策をもってしても、経済成長を実現できず、人々を貧しくする結果となったからです。今後、安倍首相よりも上手に好景気と経済成長を実現できると主張する政治家は、口だけで終わるか、安倍首相よりも人々を貧しくするか、どちらかの結果となるでしょう。

安倍首相の第三のレガシーは、政治・行政システムの透明性・公正性を重視する人々が多いことを顕在化したことです。『#検察庁法改正案に抗議します』での世論は、一見すると専門的な問題であっても、多くの人々がそれを理解し、意見を示せるとの実例です。他にも、高度プロフェッショナル制度や裁量労働制の問題においても、専門的な内容であるにもかかわらず、多くの人々が自らの意見を示しました。

今後、重大であっても複雑な問題を回避し、選挙の争点を単純化しようとする政治家は、有権者を馬鹿にしていることを意味し、重大な課題である政治・行政システムの欠陥から目を逸らす存在となります。

このように、安倍首相は歴史的な成果をあげ、有権者に重大なレガシーを残しました。偉大な成果とレガシーを残した安倍首相に、心から『お疲れさま』と申し上げます。そして、安倍首相の成果とレガシーを活かせるか、それは有権者にかかっています」。

安倍政治のレガシーを活かして民主主義の復元力の糸口を作り出す、その主体としての有権者、主権者はどのように形成されているのか。

「安倍一強」を支えてきたのは強固な支持や信任ではなく、「他にいないから」という消極的支持であり、その基盤は投票率50パーセントという政治不信、さらには他者不信の社会だ。こうした社会では、生命や健康が脅威にさらされたときに「強い権力」に依存することになり、その権力実態が空虚であればあるほど、不信と不安が増幅されることになる。そこで幅を利かせるのは、社会ではなく世間にほかならない。

なぜ安倍政治は長期化したのか。哲学者の西谷修氏は、こう述べている(朝日8/25)。

「圧政は、支配者自身が持つ力によるものではなく、支配に自ら服従する者たちが加担することで支えられている――。これが『自発的隷従』のポイントです。~中略~安倍政権は、『政治主導』の名の下、手足となる霞が関官僚の人事を一元的に握りました。そして『小圧政者』と追従者の重層的で強固な連鎖構造をつくり上げました」。

「では、この支配構造を壊すにはどうしたらいいのか。・・・(誰もが)圧政者を支えなくなれば、隷従の鎖は崩れるものです。革命は必要ありません。~中略~『目が覚める』とは、そういうことです」。

「安倍一強」現象の下、「強い側、マジョリティーについていれば安心だ」、あるいは「何をしても許される」という自発的隷従の社会的心理が一定程度、蓄積されてきた。一方で新自由主義の時代に育った自己責任世代を中心に、「自分でがんばるしかないけれど、どんなにがんばっても個人の努力だけではどうにもならないことがある」というところから、「社会」に突き当たるようにもなっている。

ここから「だから、いのちとくらしを権力に依存するしかない」と、自発的隷従をさらに深めるのか。そこから見えるのは社会ではなく、世間だ。あるいは「これは社会の問題だ」と声をあげ、他者と共有するためのプロセスを模索していくか。「声をあげる」とは異なる立場を否定することではなく、異なる立場でも合意できる共通点を探り出していくプロセスにほかならない。そこから「社会」を見出し、あるいはつくり出していく。こうした主体分岐が一部ではあれ、始まっている。

右肩上がり世代はヒラメになる(上しか見ない)ことが自己努力だと思っているが、自己責任世代は自己努力ではどうにもならないことがある、というところから「社会」に突き当たる。ここからどう他者に伝え、共有する「言葉」「表現」を獲得するかを模索する。それが見えてきたからこそ、いのちとくらしを権力に依存するしかない、という自発的隷従の実態(「王様は裸だ」)が見えてくる。

こうした主体分岐をどう促進していくか。言い換えれば、いのちとくらしを権力に依存するのではなく、「国家や政府を社会に埋め込む(統治の主体・当事者としての社会)」、「市場を社会に埋め込む(社会的市場とか社会的投資国家)」ことを可能にする社会の担い手を、いかにしてつくり出していくか。「一強」がハリボテであることが露呈したとしても、その破局を民主主義の復元力に転じるためには、その転轍手が不可欠なのだから。

コロナ危機では、それまでの「何をしても変わらない」というあきらめや自発的隷従ではなく、「声をあげれば変わることもある」という「小さな成功体験」も見えてきた。それは「社会が変わる」ことと同時に、傍観者から当事者へと自分が変わることでもある。ここからさらに社会の問題として他者と共有するために、そして他者への想像力をさらに鍛えるところへと、当事者意識をどうバージョンアップしていくか。

他者を思う想像力は、民主的合意形成のための基礎インフラの一つでもある。数で決着をつける多数決民主主義なら、異なる立場を否定して同調者の頭数を増やせばよい。しかし民主的な合意形成は、異なる立場でも合意できる共通点を探り出していくプロセスであり、そこでは他者への想像力が不可欠となる。

台湾のデジタル大臣・唐鳳氏は、こう述べている。

「『前世紀のガバナンスは二つの対立する価値、例えば『環境』と『経済発展』といった価値を代表する組織や団体をつくり、その間で調整して妥協するものだった。でも、ソーシャルメディアの登場や、ハイパーコネクテッドワールドにおいて、そのやり方は破綻した。』

~中略~彼女が実践するデジタル、または協働ガバナンスは、インターネット・ソサエティから学んだことだ。人々を利害で組織する代わりに『異なる立場であるが、合意できる共通の価値は何か』といういくつかの問いかけを行うのだ。もし合意に至ることができれば、すべての人にイノベーションを提供することができる、タンはそう語る」(フォーブスジャパン 7/27)

「異なる立場であるが、合意できる共通の価値は何か」という問いかけを積み重ねてゆくプロセスを、身近に着実に集積していく場こそ自治の場にほかならない。(自治とは地域に限定されるものではなく、「課題を共有するところに公共が生まれる」場のこと。)自分たちで議論して納得して決めた、という実感と実践を積み重ねていく先に、「自分たちが選んだ政府が決めた」ことを前提に、政策を検証したり政権を業績評価したりする民主主義の復元力が涵養されるはずだ。

「自治は民主主義の学校」という意味は、立場や見解が違っても合意できる共通の価値を探し出していくプロセスをつくり出すこと、そのための問題設定や問題解決の経験、ノウハウを持った民主主義の復元力の担い手を、自治を通じてどう生み出していくかということにほかならない。

「安倍政権のレガシー」を活かし、民主主義の復元力を涵養する主権者へ、当事者意識のバージョンアップを。

(「日本再生」496号一面より)

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映画「私たちが生まれた島 OKINAWA 2018」

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沖縄に生きる若い世代を追ったドキュメンタリー。県民投票の原動力も伺われる。

9月4日から渋谷アップリンクなどで公開。

『私たちが生まれた島 ~OKINAWA2018~』では、その姿を出来る限り取材し、そのありのままを描き出したいと考えています。私は、今、沖縄問題の未来を語るうえで、この混沌を直視することがとても重要なことだと感じています。きっと、その混沌の中にこそ、沖縄問題を解決するヒントが隠されていると信じているからです。(都鳥監督 制作意図より)

記録映画『私たちが生まれた島』公式サイト
メディア上で連日のように議論されている沖縄問題。果たして、沖縄の若者たちはどう受け止めているのだろうか。現在を生きる若い世代を主人公に、彼らがどのように今の沖縄を生きているのかを見つめたドキュメンタリー映画です。