メルマガ♯がんばろう、日本!         №289(22.9.2)

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  • 国葬問題、旧統一教会問題を考える

人権民主主義の主体基盤にむけたフォロワーシップの転換を

●国葬問題が問う「私たちの民主主義とは」

●旧統一教会問題 人権規範に対する日本社会の「鈍感さ」

□ 映画「時代革命」

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国葬問題、旧統一教会問題を考える

人権民主主義の主体基盤にむけたフォロワーシップの転換を

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【国葬問題が問う「私たちの民主主義とは」】

 9月27日に行われる安倍元首相の「国葬」。当初「追悼」モードだった世論は、旧統一教会と安倍氏および自民党の関係が次々と明らかになったこともあって、各種世論調査でも反対が多数となっている(反対53パーセント、賛成30パーセント 毎日新聞8/21)。

 世論の反発を前に、政府は「国民に弔意を求めるものではない」とし、省庁などに弔旗掲揚や黙とうを求める閣議決定も見送った。その一方で、各国の要人(誰?)が集まる弔問外交の成果を見せれば、世論も「やってよかった」となると考えている節もある。

 国葬問題、旧統一教会問題をめぐる議論を、一過性のものに終わらせるのか、あるいはここ30年あまりの「私たちの社会」を問い直す契機にできるか。

 国葬問題にくわしい宮間・中央大学教授は、戦後唯一の「国葬」である吉田茂の際には無関心がほとんどだったのに比して、今回は予想外に反対の声が多いとして、次のように述べている。

「じつはプレジデント・オンラインに寄稿した記事(7/19)は、日本の国葬が何なのか知らせなければまずいと思って、急いで原稿を書いたのです。その時は、賛成の方が多いだろうという感覚でいたので、こんなに反対の声が多くなるとは思いませんでした。そういう意味では吉田茂の国葬と今回の安倍元総理の国葬は同じではないなと、最近は思っています。

 とくに、これまであまり政治に主体的に関わろうとしてこなかった人たちが、今回は主体的に意見を述べているように見えます。これが一過性のものに終わってしまうのかどうかが、これからの課題ではないかと思います」(14-16面インタビュー)。

国葬問題、旧統一教会問題をめぐる議論を、政権に対する支持・不支持のレベルに回収されることなく、「私たちの民主主義」を問い直す回路へとつなぐ問題設定が求められている。

安倍氏の国葬については、国会審議もしない、予算も明らかにしないなど、手続き上も民主的正統性を欠いている。もちろんこれらは大きな問題だが、同時に国葬というものの本質的な性格についても考えるべきだろう。

戦前、国葬は天皇の下での国家統合・国民動員の装置として機能した。戦後に国葬を法制化するに至らなかったのは、戦後憲法下での国葬の意義を再定義できなかったからである。天皇主権・立憲君主制の下での国葬とは異なる、国民主権・立憲民主主義においての国葬とは何なのか。

「今回国葬を復活させるのであれば、戦前・戦中期に行われていた国葬とは何だったのか、考える必要があるでしょう。

さらに言えば、国家が行う儀式とは――私は必要ないと思っていますが――、その国家がどういうものかを表す場面だと思います。ですから本来であれば、戦後日本の民主主義とは何なのか、自由主義とは何なのか、ということを問わなければいけないと思います。そのうえで、こういう国葬のあり方はどうかという話がでてくるのであれば、検討の余地はあるかもしれません。

国葬の法的根拠とか、基準が難しいといったことは、あくまでも政治問題として議論されてきたことで、それらも重要なことですが、それだけでは本質的な議論は深まらないと思います」(宮間教授 前出)。

国民の税金を使って国家の名の下に行われる国葬を閣議決定で行うことも、単なる手続き問題では済まされない。例えば次のような指摘は重要だろう。

「そもそも国葬とは何なのか、ということもほとんど議論されていません。国のお金でお葬式をするだけということなのか。けれどその場合でも、例えば遺族が宗教色を望んだ場合にはどうなるのか。国のお葬式だとすると、国民が何らかの形で参加を強いられるのか。~中略~日本のように同調圧力の強い社会で、政治利用のおそれのある国葬を行うということ自体、思想の自由を侵害するかもしれないということは注意しなければなりません。信教の自由を理由にカルト団体の取り締まりを躊躇する人々が、なぜこちらの問題では躊躇しないのか不思議です。国葬をやろうという人々からは、説得力のある説明も聞こえてきません。国民的合意を得る必要性、国民に対する畏れを、政権を担っている人々が感じていないということを示す決定だと思います」(高安健将・成蹊大学教授 https://d4p.world/news/18281/)。

国葬をめぐるこうした論点は、安倍氏や岸田政権に対する政治評価のみに回収されるものではないし、既存の与野党の枠組み―利害集団民主主義―では、会話としても深まらない。敵と味方を峻別したり、政権に対する支持・不支持の二項対立を前提とするような「議論」ではなく、多様な視点を前提に「私もあなたも主権者として考えてみませんか」という対話ができるような、フォロワーシップの転換が不可欠だ。そのための主体的な条件を涵養していこう。

【旧統一教会問題 人権規範に対する日本社会の「鈍感さ」】

安倍氏銃撃で明るみに出た旧統一教会と自民党との関係。当初、「関連団体とは知らなかった」などと関係の薄さを強調しようと努めていた自民党だが、次々と関係が明らかにされるなかで、今後は関係を持たないという基本方針を役員会で決定、茂木幹事長は今後も関係を持ち続ける議員は離党すべき、との考えを示した。いわば世論に押される形での決定だが、「関係を断つ」と言えば済む問題ではない。

「今回の問題は、宗教と政治という一般論から入るべきではない。これはカルト問題、人権問題や社会問題と宗教と政治の問題がかけ合わさったものとして考えるべきもの。(数々の問題を起こし裁判所にも認定された)団体と政治家がつながって来た。これこそが第一の問題」。宗教社会学が専門の塚田穂高・上越教育大学准教授の言葉だ(NHKクローズアップ現代 8/29)。

1990年代前半までは、合同結婚式や霊感商法の被害がマスコミで大きく報じられていたものの、90年代後半以降、統一教会に関する報道の量は減り、世間の関心も薄れていくなかで、2010年代に自民党政治家と統一教会の関わりはさまざまな局面で強まるようになり(教団の名称変更や特定取引法違反の捜査など)、選挙を媒介にした〝持ちつ持たれつ〟の関係が深まる。決別宣言をするのであれば、こうした過去の構造的あるいは体質的な問題をきちんと検証し公表し、反省することとセットでなければならないだろう。そうでなければ、関係がますます見えにくくなるだけだ。(参照 東洋経済オンライン8/29https://toyokeizai.net/articles/-/613877)

さらに言えばこの問題は、反社会的な宗教団体に政治や社会はどう対応すべきか、という難問に、政治家はもとより私たち国民も向き合ってこなかったツケでもある。

「反社会的勢力」を定義することは、あるカテゴリーの人々の人権を制約することを意味する、きわめて危険なことである。一方で集団としては排除しても、個々の個人に対しては社会的に包摂する手当が必要になる。「反社会的勢力について定義できない」という閣議決定(2019年)は、このような人権に関わる責任を放棄した姿勢を端的に表している。

フランスではカルトに対する厳しい規制があるが、それはオウム真理教をはじめ、90年代にカルト教団による衝撃的な事件が各国で相次いだことによるという。団体や教義自体を規制するのではなく、人権を侵害した「行為」を規制対象とするものであることは、いうまでもない。

日本では旧統一教会問題について「寄付は個人の自由」というワイドショーのコメンテイターがいまだにいる。消費者民主主義・「カラスの勝手」の自由観では、信教の自由と人権侵害行為との区別もつかない。これでは人権の普遍性についても、社会の中で人権を保障していく緊張感についても、当事者意識を持つことはできない。

フランスのカルト規制にくわしい中島宏・山形大学教授は、次のように述べている(朝日デジタル 8/25)。

 「――セクトに対するフランス政治の対応と、旧統一教会への日本政治の対応。両者の対比から何が見えますか。

 「フランスの過敏さと日本の鈍感さです。フランスでは、宗教団体による人権侵害に対して政治が過敏に反応しました。当初は『カルトを社会から根絶しよう』という機運が濃厚だったという事実があるからです。ただし、強すぎる規制は自由や平等といった価値を傷つけかねないという認識が次第に共有され、違法行為だけに着目する方向に転換したりブラックリストをとりやめたりしたこともまた事実です。後者の経緯からも、学んだ方がいいと思います」~中略~

「(日本でカルト規制が進まなかった理由は)・・・政治がそもそも人権保障を大事だと考えていないことが要因なのだと思います」。

ここでも、求められているのはフォロワーシップの転換だ。

「『わたしたちに人権があるのは、憲法で定められているから』ではない」。とある勉強会での市議による問題提起だ。

私たちに人権があるのは、憲法に定められているからではありません。もしそうだとすると、私たちは人権を憲法に与えてもらっているということになります。こう言うと、「なんて理屈っぽいんだ」と思われるかもしれませんが、この差は大きいんです。

そもそも憲法は国家権力を縛るものですから、私たちに人権をくれてやるという上から目線の規範ではない。

例えば第19条に「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と書いてあります。仮にこの規定がなくても、私たちは考え方や価値観などをそれぞれ自由にもっていい、内心に止まる限りは無制約であるといえます。一方、自民党の改憲草案はこの19条に関して「思想・良心の自由」の規定は残しますが、「これを侵してはならない」という部分を「保障する」と提案されています。

 人権に関わるこの差を生活実感を伴って主体化できる、フォロワー同士のコミュニケーションをどうつくりだしていくか。こうしたところから、人権民主主義の主体基盤を集積していこう。

(「日本再生」520号 一面より)

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映画「時代革命」

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自由と民主主義を求めて最前線でたたかう香港の若者たちのドキュメンタリー。もはや香港での上映は不可能だからこそ、海外の私たちが見るべき映像。

映画『時代革命』公式サイト (jidaikakumei.com)