メルマガ♯がんばろう、日本!         №296(23.4.2)

「がんばろう、日本!」国民協議会

がんばろう!日本!! 国民協議会

==================================

Index 

□ 統一地方選にむけて 自治の現場で試される民主主義の地力

●政治選択の責任を引き受ける  自治の現場で試される民主主義の地力

●争点は私たちがつくる  どんな社会を望むのかを語り合い、課題を共有する場としての選挙へ

□ 囲む会(東京 5/12)【会員限定】、総会(5/14)【会員限定】のお知らせ

□ 争点は私たちがつくる 参考サイト

==================================

統一地方選にむけて 自治の現場で試される民主主義の地力

==================================

【政治選択の責任を引き受ける 自治の現場で試される民主主義の地力】

統一地方選が始まった。地方選の投票率は右肩下がりで、前回は概ね40パーセント台(町村議員選挙は約60パーセント)。都道府県議員選挙では27パーセント、指定都市議員選挙でも3パーセントが無投票だった。それから四年。その間の三年余りはコロナ禍で、自分たちの地域の地方政治・地方自治が〝いのちとくらし〟を守るために機能しているのか、ということを多くの人が実感したはずだ。地方政治・地方自治は「だれがやっても同じ」ではない。

例えば、コロナの死者数にはあきらかに「地域的不均等」がある。人が集まる東京や大阪などの大都市圏で感染者が増えるのは当然だが、大阪の死者数は東京を上回っている。それは、維新政治によって公衆衛生部門が削減されて続けてきた結果にほかならない。(岡田知弘・京都橘大学教授は大阪の状況を「激甚被災地」と表現している。526号参照。)

あるいは特別定額給付金。そもそも市民が声を上げなければ「お米券」や「お肉券」が配られたかもしれないという問題もあるが、北海道の小規模自治体では予算案が成立した日に全住民に給付金を配布し終えた一方、大阪では6月になっても配布率は5パーセントに届かなかった。業務委託先の不手際が原因だが、背景には、通常業務さえ民間に丸投げしなければならないほどの公務員削減がある(前出 岡田教授)。

ワクチンも知見もないなかで未知の感染症に対応しなければならない、という客観条件は同じでも、その対応に「地域的不均等」が生じるのはなぜか。違いが見えやすい首長のリーダーシップに注目が集まったが、より本質的に言えば、その地域の自治力――首長・議会・市民による地方政治のマネジメント力――の違いと考えるべきだろう。

「非常時」に専決を繰り返す首長の下では、多額のコロナ補助金をどこに使い効果はどうだったのかという検証も満足に行われないだろう。そうした自治体の財政は大丈夫なのか?

こうした力は今後いっそう問われることになるだろう。

コロナがいったん落ち着き始めるなか、改めて私たちの目前には、コロナ前よりさらに加速した人口減・少子化や経済的凋落、社会の衰退といった課題があらわになっている。いずれも「失われた30年」の間に先送りし続けた結果であり、あるいは「〇〇を取り戻す」「これしかない」という「決められる政治」が、危機のときには「やっている感」しか演出できなかった結果でもある。こうした意味でも「コロナ前」には戻れないなか、次の方向をどのように見出していくか。

「日本の衰退という事実が否応なく明らかになるなかで、岸田政権は、子ども手当てに対する所得制限について「反省する」とは言えるようになった。安倍政権では絶対に言えない。民主主義とたたかっているのか、民主主義のためにたたかう内因はないが民主主義とたたかう内因もないのか。この違いはやはり無視できない。

 衰退や破局という客観情勢の変化を主体転換のチャンスへ、という問題設定からは、いかなる内因もないところにまで「意欲のある人の提案を受け入れるしかない」という合意を形成していかなければならない」(総会報告 256号)。

 

ここで試されているのは、難題をどう解決するかという「正解」ではなく、そもそも「正解」が見いだせないような難題に向き合い続ける民主主義の地力が、私たちにどこまであるかということだろう。民主主義の優位性―地力は、「正解」を押し通す力(多数決がそれに正当性を与える?)ではなく、異論を含めた多様な意見による合意形成を重ねることができるところにあるはずだ。

問題提起や問題設定のしかた、対話や議論のスタイルもこの観点から転換していくことが求められる。

例えば鵜飼健史・西南学院大学教授は「囲む会」(3/21)で、さまざまなトピックを市民の政治責任に引き付けつつ、「民主主義とはなにか」という切り口から問題設定を整理している。

「民主主義の場合、民主主義の中における「私たち」―政治主体としての「私たち」を守っている、ということではないでしょうか。~中略~もっとあけすけに言ってしまうと、私たちは政治権力というものを評価できるということ。これは代えがたいものではないでしょうか。非民主主義社会でも、成功する政策もあれば失敗する政策もあると思いますが、それを評価する場は与えられていません。その意味では、民主主義には修正能力が読み込まれている――ありていに言えば、ああだこうだと言える――ということです。これは代えがたいところであり、かなり優位性を持つのではないでしょうか」(22

-27面「囲む会」参照)。

あるいは小泉悠氏は報道番組で「国会で安全保障論議を進めたほうがいいのでは」という視聴者からの質問に、「安全保障論議は大事だが安全保障で何を守りたいかといえば、今の平和な日本。文書偽造はよくないとか国会で追及することも同じくらい大切で、そういう日本を守るために安全保障論議があると思うので、両方やればいい」(要旨)と答えたという。

「ああだこうだと言える」民主主義の優位性―守るべき価値は、ひるがえって市民の「選ぶ責任」を問うものでもある。前記「囲む会」で鵜飼教授は、(無謬性を前提にした)専門家支配や、くじ引きによる政治家の選出は、政治的な選択にともなう市民の責任を極小化することになると警告する。あるいは以下のようにも言えるだろう。

――今は、ビックデータやアルゴリズムによって政治的な意思決定を行なえばよいといった議論もあります。

・・・そういった考え方に賛同する人は、自分で決めたくないところもあるだろう。責任を負うことに対する嫌悪感も強い。いろいろなものが自動的に決まったほうがいいし、楽じゃないかという考え方が支持を得るのはわかる。要は、誰かに託すというのは自分の責任を果たす行為でもあるわけだから、自分が考えなければならない。託す側にも責任がある。

「ノーフリーランチ(無料の昼食はない)」というわけだが、アルゴリズムやビッグデータによる政治への希望は「フリーランチはある。テクノロジーがフリーランチを生み出す」ことへの期待かもしれない」(砂原庸介・神戸大学教授 東洋経済オンライン2/12)。

コロナ禍では、こうした責任の極小化で、自分たちの〝いのちとくらし〟も誰かにお任せするのか、が問われたのではないだろうか。

「さらに言うと、緊急時に備えて、平時に信頼できる民主主義的な政治家を選んでおくべきではないか。その政治家の判断なら自らの意志として受け入れられるか、という自問をすればよくわかるのではないでしょうか。~中略~

コロナ禍に直面して政治、あるいは政治家に対する信頼度の低さが露呈したのが、日本社会の特徴だと思います(例:アベノマスク)。選挙で自分たちが選んでいるにも関わらず信頼していない。世襲政治家を選んでいる方もシニカル、悪く言えば信頼していない、それにもかかわらず選んでいるという構図が露呈した、という言い方もできるかもしれません」(鵜飼 前出)。

安全保障論議も、責任の極小化の土俵の上で行われる場合と、「ああだこうだと言える」からこそ政治選択の責任を引き受けるという土俵の上で行われる場合とでは、そこから生まれる力は全く違ってくるはずだ。

【争点は私たちがつくる どんな社会を望むのかを語り合い、課題を共有する場としての選挙へ】

現在の日本の最大の政治課題のひとつが少子化・子育て支援、人口減であることは疑いない。

岸田政権は、児童手当の所得制限撤廃や給食の無償化などを含む、異次元の少子化対策の「たたき台」を発表した。統一地方選にむけたアピールという意味もあるだろう。これまでさんざん言われながら先送りしてきた政策の羅列にすぎないとか、統一地方選後は「検討中」のままに終わるのではないかといった批判もある。しかし、そもそもこうした(主に経済的)支援メニューの羅列に終わってしまうところにこそ、「落とし穴」があるのではないか。

今回の地方選で市民が争点をつくることを目指して活動している埼玉政経セミナーの報告は、こう述べている。

「特に人口減少に関しては、人口が減っている現実をどう受け止めるかで変わってきていて、減少=衰退と思うか、減少という現実を受け止めたうえでどう充実させていくか、人の生き方や価値観として、「生む自由、生まない自由」という権利と捉えるかなどその視点の違いが明確にあらわれました」(「一灯照隅」305回)。

人口減や少子化の「何が」問題なのか。言い換えれば人口が増えることや、出生率が上がることが課題解決の目標なのか。政治的な決定や選択のためには、まずさまざまな立場や意図、切り口からの議論が必要ではないのか。

例えばハンガリーは、子どもを四人産めば生涯所得税ゼロをはじめとする手厚い支援を行うことで、出生率を1.23から1.59に回復させたという。しかしその政治目標は、移民なしに人口を維持するために伝統的な家族(その価値観)を守るところにあるという。こうしたことが課題の解決なのか。

林香里・東大教授は「これまで、少子化対策として経済的支援ばかりに目が行っていたが、まずは伝統的な家族観が若者に家族を持つことをためらわせ、少子化を助長しているのだという意識を社会で共有し、それを改めていく必要がありそうだ」と問題提起する(朝日3/30 論壇時評)。

 ここでも紹介されているが、浜田敬子氏は30年あまりの「少子化対策」が一向に効果を上げず、海外から「反面教師」として見られているのは、場当たり的で小手先の対策が繰り返され、本質的な問題が解決されていないからだとする。(https://president.jp/articles/-/66563

 本質的な問題とは何か。

「その一つが、女性が差別を受けずに働き続け、生活と両立できるようにすることだ。『女性のWLB(ワーク・ライフ・バランス)を充実させることは子どもを産むための環境づくりではなく、男女差を無くすためです。(中略)全生涯において豊かで暮らしやすい社会づくりをすることで、結果として出生率が上がっていくだろうという考えです』(『世界少子化考』より)

まさに日本も取るべきは、この一人ひとりの人権や生活を尊重した社会づくりではないだろうか。こうしたアプローチは時間がかかるかもしれないが、それこそが少子化の本質的な解決につながると思う」(浜田 前出)。

人口減や少子化の何が問題で、課題解決の目標は何なのかということについても、さまざまな切り口や立場、意見があり、その議論から何らかの合意を形成していくことが民主主義ということだろう。そのためにどういうことが必要だろうか。

ひとつは、明らかにそうした場のジェンダー不均衡がはなはだしい現状だ。

折しも日本維新の会、馬場代表は記者会見で次のように述べた。「(選挙における女性候補の擁立について)選挙は非常に厳しい戦いだ。女性の優先枠を設けることは、国政でも地方議会でも我が党としては全く考えていない。衆院選でも、選挙区でたった1人が当選するという厳しい選挙の中では、私自身も1年365日24時間、寝ているときとお風呂に入っているとき以外、常に選挙を考えて政治活動をしている。それを受け入れて実行できる女性はかなり少ないと思う。女性が政界に進出するのはウェルカムだが、今の選挙制度が続く限り、女性枠を設けてもなかなか女性が一定数、国会や地方議会に定着することは難しいと思う」(朝日3/28)。

 これでは多様な立場、切り口から問題を議論していくこととはほど遠い。「起きている時間のほとんどを選挙や政治に費やしている人は本当に、ケア労働に自らも従事し、その価値を知る人よりも、市民にとってよりよい政治ができるのか。ケア労働をここまで無視した「政治」とは、本当にその名に値するものなのか。馬場氏の発言を奇貨として考えたいところだ」(この記事に対する三牧聖子・同志社大学教授のコメント)。

「政治だけではなく、自治会などでも女性の会長はまだまだ少ない。男性にも女性にもいろんな考えの人がいるので、女性だからと十把ひとからげにされるのもどうかなとは思いますが、物事を決定したり、ルールを決めたりする場面には、いろいろな角度から物事を見られる人が集まるのが大事です。

 ~中略~一つの事象をいろいろな角度から見ることで、課題を解決していく。女性でも男性でも、さまざまな経験を持った人たちが議論して、社会を良い方向に進めていくのが政治だと思っています」(近藤弥生・足立区長 東京新聞2/20)。

もうひとつは多様な立場、切り口を互いに議論し、交換し、共有し合う場づくりの大切さだ。

前出の埼玉政経セミナーの報告は、次のように述べている。

 「今回とても印象的だったのは、登壇された方々がとても自由に発言をされていたということです。これは単に発言慣れしている議員だからということではなく、日ごろからの関係性によるものだと推測します。例えば越谷市では議員有志の会という超党派、超会派での集まりによる市政報告会を年4回議会閉会後に定期的に行っています(今回の参加者の多くはその会のメンバーの方でした)。白岡は二つの会派からの参加でしたが、こちらも普段から合同での活動や報告会を行っているとのことでした。つまり、思想や意見の違う多数の人たちで議論をするという空間に慣れているということが分かるのです。意見を言っても、感情的な対立や力によるねじ伏せなどがおこらないことを理解していれば、人はこんなにも自由に発言をすることができる。これがコモンズの基本であり、このような場があって初めて「多様性」という言葉を使うことができるのです。そしてこうした場は、突然出来上がるのではなく、日常生活における関係性が作り上げるもので、だからこそ社会に対する疑問や感じる不条理について日常のいたるところでまずは自分自身が意識的に話題に挙げる努力と勇気を持つ必要があります。誰かがこういう場をつくってくれるのを待つのではなく、私たちが「コモンズ」を自ら創り出していくのです」。

 選挙もまた、多様な立場や切り口を互いに議論し、交換し合う場のひとつであるはずだ。残念ながら総務省の指摘で断念せざるをえなかった杉並区のボートマッチの試みも、杉並区の施策に対する多様な立場や切り口を見える化しようとする試みといえるだろう。

「選挙っていつまでも変わらない」自治体初のボートマッチを断念した杉並区「夜の区役所」で語られた言葉(亀松太郎) - エキスパート - Yahoo!ニュース
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、日本が準決勝進出をかけてイタリアと熱戦を繰り広げた3月16日の夜。同じころ、東京都杉並区の区役所の一室に20代から70代までの12人が集まり、静かに議論

 神戸では市民有志が、「子育て、くらし、まちづくり・・・言葉はおなじでも、政治家によってその言葉の【意味】は全然違う。でもぱっと見ではわからない」と、候補者への政策アンケートを行ってネットで公開している。

私たちから候補者へのQ 兵庫県議会議員選挙統一地方選挙神戸市議会議員選挙 | ジェンダーを考えるこうべ市民有志の会@東灘区
私の政治、私が選ぶ。私が、ありのままの私で、未来を選びとるために議員の雇い主は私らやし!モノ言う雇い主になろうや。私たちから候補者へのQ 兵庫県議会議員選挙統一地方選挙神戸市議会議員選挙 ジェンダーを考えるこうべ市民有志の会@東灘区

 大阪府知事・市長ダブル選挙では、「維新vs反維新」という既存政治の構図ではなく、都構想を問う二度の住民投票、カジノの是非を問う住民投票条例請求署名という直接民主主義の実践の上に立って、「住民自治をあきらめない」対話と連帯の場としての選挙が展開されようとしている。

第九回大会(2019年)では統一地方選にむけて次の三点をよびかけた。

(1)人口減少時代の合意形成への視点を (2)議員(候補者)に求められる「審査員としての構え」 (3)課題を共有する場としての選挙へ

 とくに(3)では、選挙を地域の利害や意見の違いを「数で決着つける」場ではなく、さまざまな地域の課題が提起され、それらを共有していく場としていくことがよびかけられた。今回の統一地方選でも、それをさらに深化させて民主主義の地力を鍛えていこう。それは安全保障論議の民主的土俵づくりや、人権力を含む総合的な抑止戦略の基盤づくりにもつながるはずだ。

(「日本再生」257号一面より)

==================================

第212回 戸田代表を囲む会 【会員限定】

==================================

第212回 戸田代表を囲む会 【会員限定】

5月12日(金) 18時30分から21時

ゲストスピーカー 宮間純一・中央大学教授

「歴史手思考力を育むために」

「がんばろう、日本!」国民協議会 市ヶ谷事務所

会員/2000円  同人/1000円

オンライン配信については改めてご案内します。

==================================

第14回 総会 【会員限定】

==================================

5月14日(日) 13時から17時

テーマ 統一地方選の振り返り、教訓ならびに今後の方向性の共有

「がんばろう、日本!」国民協議会 市ヶ谷事務所

オンライン配信については改めてご案内します。

==================================

争点は私たちがつくる 参考サイト

==================================

「選挙っていつまでも変わらない」自治体初のボートマッチを断念した杉並区「夜の区役所」で語られた言葉(亀松太郎) – 個人 – Yahoo!ニュース

統一地方選2023 | ヤシノミ作戦 (yashino.me)

私たちから候補者へのQ 兵庫県議会議員選挙統一地方選挙神戸市議会議員選挙 | ジェンダーを考えるこうべ市民有志の会@東灘区 (mimoza.jp)

「みんなの未来チェックリスト」HOME | 埼玉政経セミナー (saitama-seikei.com)