メルマガ♯がんばろう、日本!         №266(20.9.29)

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「がんばろう、日本!」国民協議会

がんばろう!日本!! 国民協議会

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Index 

持続可能な未来への選択肢をつくり出そう

●「見たいものだけ見る」世間ではなく、他者への想像力を鍛える社会を

問われているのは、私たちのあり方

●持続可能な未来を選び取るために

資本主義を福祉社会と民主政治に埋め戻す

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民主主義の復元力を涵養する社会へ

持続可能な未来への選択肢をつくり出そう

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●「見たいものだけ見る」世間ではなく、他者への想像力を鍛える社会を

問われているのは、私たちのあり方

 菅政権が誕生し、落ち込んでいた政権の支持率は反転した。共同通信の全国緊急電話世論調査(9/16、17実施)では、菅内閣の支持率は66・4%と、最近の歴代内閣の発足時と比較しても高支持率となった。一方同じ調査で、森友、加計学園や桜を見る会問題を「再調査するべきだ」との回答は62・2%、「再調査する必要はない」は31・7%だった。

読売新聞の調査では、内閣を支持する理由は「他によい人がいない」30%、「政策に期待できる」25%、「首相が信頼できる」19%などの順。一部選択肢が異なるが、安倍内閣末期の支持理由では「政策に期待できる」と「首相が信頼できる」がいずれも10%未満で、それに比べると積極的な支持が増えたとも見えるが、「他によい人がいない」が最多という消極的な支持構造は変わっていないといえるだろう。

「安倍一強」を支えてきたのは強固な支持や信任ではなく、「他にいないから」という消極的支持であり、その基盤は投票率50パーセントという政治不信、さらには他者不信の社会だ。こうした社会では、生命や健康が脅威にさらされたときに「強い権力」に依存することになり、その権力実態が空虚であればあるほど、不信と不安が増幅されることになる。そこで幅を利かせるのは、社会ではなく世間にほかならない。

なぜ安倍政治は長期化したのか。哲学者の西谷修氏は、こう述べている(朝日8/25)。

「圧政は、支配者自身が持つ力によるものではなく、支配に自ら服従する者たちが加担することで支えられている――。これが『自発的隷従』のポイントです。~中略~安倍政権は、『政治主導』の名の下、手足となる霞が関官僚の人事を一元的に握りました。そして『小圧政者』と追従者の重層的で強固な連鎖構造をつくり上げました~中略~自発的に隷従しているのは官僚ばかりではありません。経済界やNHKをはじめとするメディアも同じです。みな権力支配の秩序の中で生き、私腹を肥やしているのです」。

自発的隷従の連鎖は、私腹を肥やしているわけではない「世間」にも空気のように広がっていく。

ジャーナリストの津田大介は朝日新聞(9/24)の「論壇時評」で、政治学者と哲学者と社会学者と小説家の論考を取り上げて、次のように述べている。

「彼らに共通するのは『安倍政権で噴出した問題とは、安倍前首相個人にその責があるのではなく私たちそのものの問題である』という意識だ。~中略~政治学者と哲学者と社会学者と小説家が同じ結論に達したことの意味を考え、これを受け入れることからやり直していくしかない。対峙すべきは『アベ』ではなく、『私たち』のあり方だ」。

(取り上げられている論考は次の通り。政治学者/吉田徹「安倍政権1強の決算(下)日本社会そのものを体現」 信濃毎日9/9。哲学者/千葉雅也「大人の議論 消えた7年8カ月 朝日9/1。社会学者/宮台真司「『見たいものだけ見る政治』支えた国民意識 朝日デジタル9/14。小説家/田中慎弥「本が読まれない時代の政治家 三島没後50年 名作が廃れたこの国」 朝日9/2。)

「私たちのあり方」を端的に問うのは、「この政権しか知らない」若い世代だろう。

「豊かなのに冷めていて、あきらめている」。文化大革命を経験した芥川賞作家・楊逸は、大学で教える学生をこう評する(読売9/10)。「この学生たちの冷めた雰囲気が、7年8カ月続いた安倍政権の下での社会のイメージと重なります」。「学生たちは、私がかつて親しんだユゴーの『レ・ミゼラブル』やヘミングウェイの『老人と海』のような異質な人間同士がぶつかる古典の名作は読みません。自分たちにとって分かりやすい世界が描かれたファンタジーやライトノベルが好きです」(同前)との指摘は、「論壇時評」で取り上げられた論考にも通じるものがある。

「見たいものだけ見る」世間なのか、異質な他者と出会い、他者への想像力を鍛える社会なのか。「私たちのあり方」が問われる。

野口雅弘・成蹊大学教授は、他者を尊重するという若者の特性の両義性を指摘する(朝日9/17)

「安倍政権が長く続いた理由のひとつに、若者の高い支持率があったと言われています。一方で、政権を批判したSEALDsの存在も注目されました。正反対の動きのようですが、双方には共通点がある。多様性を尊重し、他者を否定しないでおこうとする姿勢です」。こうした他者を尊重する姿勢は、議論の当事者となる=相手を否定することへの躊躇→沈黙につながるが、他者を尊重しつつ「多数派に同調せず、分裂もせずに『政治的論争の当事者になる力』」を示したところにSEALDsの輝きがあったと。

長期政権を支えたのは、50パーセントという低投票率でもある。解散権を巧みに使って、争点があいまいな選挙を繰り返す政局運営の成果でもあるが、根底にあるのは政治不信、他者不信の世間だ。これでは「政治的論争の当事者になる力」は育たない。

坂本治也・関西大学教授は、政治参加の水準が低いのは政治への関心が低いからという「通説」に対して、事はそう単純ではないと指摘する(Voice10月号)。

例えば日本、アメリカ、スウェーデンで政治への関心の程度はほぼ変わらないのに、直近の国政選挙の投票率は54パーセント、47パーセント、82パーセントと大きく異なっている。政治関心と政治参加は重なりあうものの、それぞれ固有の要素を持っているということだ。政治参加の要因としては、①資源(金銭、時間、知識、市民的スキルなど)②指向性(政治関心、参加規範、政治的有効性感覚など)③リクルートメント(動員、勧誘など)が挙げられる。

こうしてみると、近年の低投票率は政治関心以外の観点から理解できる。「一億総中流」と言われた時代に比べて資源、とくに金銭的な余裕は少なくなり、参加規範は希薄化、政治的有効感よりも「あきらめ」が広がり、社会的なネットワークも弱体化している。政治関心はあっても政治参加しない(選びたくても選べない)無党派層は増える一方だ。

こうした構造では、支持組織の堅い動員が見込めれば、低投票率のほうが好ましいということになる。公文書改ざんや政治の私物化など、政権が飛ぶようなスキャンダルが続いても選挙で勝ち続けた理由も、こうしたところにあるだろう。

コロナ危機では、「声をあげれば変えられる」という政治的有効性感覚の一端が垣間見られたが、事はそう楽観的ともいえない。

「むしろ、今後の日本政治に起こるのは、政治参加の水準のさらなる低下のほうではないだろうか。また、政治参加の水準の低下は、とくにコロナ禍のなかで経済的に困窮しやすい低階層の人々のあいだでより深刻化することが予想される。~中略~民主政治は本来、弱者の声を積極的に拾い上げて、それを政策に反映させ、経済社会で起こる不平等や不公正を是正する機能を有する。しかし、政治参加水準の階層間格差の拡大が今後生じていけば、そうした民主政治の重要な機能が失われてしまう危険がある」(同前)。

民主主義は単なる多数決ではない、合意形成のプロセスだ、という意味はかつてほど単純ではない。かつてであれば対立する価値、例えば「経済」と「環境」をめぐって多数派を競い、それぞれの利害を調整して妥協することが考えられた。しかし今日では、人々を利害で組織するかわりに「異なる立場ではあるが、合意できる共通の価値は何か」という議論を積み重ねていく多様なプロセスが必要になる(唐鳳 フォーブスジャパン 7/27)。

そのためには「政治的論争の当事者になる力」や、その前提となる「他者への想像力」が不可欠だ。そうした力を涵養していく社会(世間ではなく)を不断に鍛えていくことが伴わなければ、民主主義は選挙によって死んでいく。

民主主義の復元力を涵養する社会をどう築いていくか。史上最長の長期政権が遺した課題は、コロナ危機における民主主義の課題でもある。

●持続可能な未来を選び取るために

資本主義を福祉社会と民主政治に埋め戻す

格差の拡大はコロナ危機以前から各国の大きな課題であり、ワーキング・プアなどの新しい生活困難層や「見捨てられた(と感じる)人々」の増大は、民主主義を不安定なものにしてきた。高度成長期の福祉国家による再分配に替わる北欧型の社会的投資戦略(積極的労働力市場政策)は、資本主義を民主主義と福祉国家に埋め戻す「設計図」になりうるのか。

宮本太郎・中央大学教授は「社会的投資戦略を超えて―資本主義・福祉・民主政治をむすび直す」(「思想」8月号 岩波書店)で、次のように論じている。

資本主義と福祉国家、民主政治が幸福な連携を保っているように見えた時代は、戦後の高度成長期、いわゆるフォーディズムに代表される物質的資本主義の時代である。資本主義のグローバル化と非物質主義的転回ではこの三者の紐帯が切断され、新しい生活困難層や「見捨てられた(と感じる)人々」の増大、感染症や環境危機のリスクなどによって、むしろ互いの機能を妨げあっている。

この三者の関係を再構築する方向として注目されてきたのが、北欧型の社会的投資である。これは福祉国家の機能を保護から能力形成へ、生活困窮の事後的補償から事前的予防へ、所得保障のための給付から人的投資のための給付へ転換を図るものである。安倍政権の「全世代型社会保障」や「一億総活躍」なども、こうした発想が取り入れられている。

しかし現状では、この戦略が有効に機能しているとは言えない。「第三の道」路線が象徴するように、社会的投資戦略は新自由主義的な市場主義に接近しすぎたという批判もある。一方でグローバルな資本主義は、環境危機やパンデミックにおいても「惨事便乗型資本主義」的に展開しかねない。

筆者は、「新しい生活困難層」への対応を軸に資本主義、福祉、民主政治のつなぎ直しが求められているとしたうえで、新たな社会的投資戦略の方向性を次のように提起する。

第一に、これまでの社会的投資戦略が経済成長の実現を目標の一つとしてきたのに対して、人々の雇用可能性を引き上げるのではなく、自らの生活を向上させる多様な潜在的力を高め、地域の社会関係資本を増大させていくこと、すなわち先端部門でなくとも、一般就労でなくとも、多様な人間活動を支える仕組みが求められている。

第二に、社会的投資に社会的経済を組み込むこと。非営利活動はもとより社会的な企業など、高い経済的リターンは望めなくても社会的経済に雇用の場を確保できるなら、多元的な社会的包摂が見込まれる。

第三に所得保障の機能転換。社会活動での就労による所得だけでは生活を支えられない場合、多様な社会活動への参加を条件に所得補填を行う「能動市民活動税額控除」のような仕組み。

第四に就学前の子どもに関しては、格差是正のためには普遍主義よりもむしろ低所得層に絞ったサービスが必要。(幼児教育無償化では、所得に応じた保育料が無償になったため、むしろ高所得層が恩恵を受け、低所得層では逆に給食費などの負担が増えることになった。)

この論考で示唆されているのは、一言で言えば「経済成長神話からの脱却」ということだろう。ベーシックインカム論に注目が集まる理由も、こうしたところにある。

本田浩邦・獨協大学教授は、ベーシックインカムについてこう述べている(「世界」9月号)。

「第一に、戦後の資本主義は完全雇用と社会保障を両輪として成長を遂げてきたが、~中略~従来の雇用が戦後経済成長の波に煽られた、つねに必要以上の肥大化傾向をもつ不合理なものであったのに対し、ベーシックインカムは過度に肥大化した生産と消費から就労促進圧力を下げ、労働時間を短縮しつつ人々の生存権を保障する。

第二に、~中略~従来の社会保障が男性正社員中心の完全雇用を典型モデルとし、それから逸脱し溺れた場合の選別的な救命ボートであったのに対し、ベーシックインカムはいわば各自がつねにライフジャケットを身に着けた状態にする。

ベーシックインカムが他の社会保障制度を廃止するものだという・・・リバタリアンの主張がないわけではないが、多くの論者はベーシックインカムが・・・既存の制度と共存し、それらを補完するものと考えている」。

「アベノミクス」はマネタリズム、ニューケインジアン、サプライサイド経済学など、異なる経済思想に基づく経済政策を総動員してきたが、目標に掲げた「持続的な経済成長(成長率3%)」を実現できなかった。「一強」の長期政権でも実現できなかった「成長神話」から脱却したくらしの豊かさと、人への投資による社会の豊かさを目指すところに、新たな「共通の価値」を見出すことができるのではないか。

新しい立憲民主党の綱領は、その一歩たりえるか。枝野代表は9月23日の外国特派員協会の講演で、次のように述べている。

「これまでの野党、例えば民主党などと、今度の新しい立憲民主党は何が違うんだというご指摘を受けることがあるが、明確に違っている。これまでの野党勢力が難しい舵取りを要してきた大きな課題の一つを、今回の結党で乗り越えることができたと位置づけている。
 それは綱領という形に明確に示されている。これまでの野党勢力は、自分たちの立ち位置、基本姿勢のところが曖昧だったという弱点を抱えていた。


 綱領に、『目先の効率性だけにとらわれず』という文言が入っている。それに続いて、『過度な自己責任論に陥らず、公正な配分により格差を解消し』と書いている。また『機能する、実行力のある政府』というワードを使っている。

これまで自民党は、中曽根総理の時代から、小泉総理、そして安倍総理も、いわゆる新自由主義的競争を過度に重視し、一方、国民には自己責任を迫ってきた。政府は小さいほどよく、規制は少ないほどいい。こういう自民党の立ち位置に対して、野党勢力は、それとは違う方向性を示しながらも、今申し上げた、『改革』にも一定の色目を使ってきた。

今回は明確に、新自由主義的な自由民主党に対して、私たちは『支え合う社会』と(いう)言い方をしているが、相互の、国民同士の協力によって、さまざまなリスクや、あるいは障害を乗り越えるために、政府が積極的な仕事をするという立ち位置を明確にした。


 私たちはこうした明確な立ち位置のもとで、一つにはコロナによって大変深刻な状況になっている国民生活を立て直す。そして二つ目には、この30年ほどの間に拡大をしてきてしまった社会の格差と分断を乗り越える。そして三つ目は、この30年間、日本だけが先進国の中で低成長が続いてきた、その根本原因である消費の低迷を乗り越える。この三つを実現する。このことを掲げて、政権のもう一つの選択肢になっていきたい」

https://newparty.cdp-japan.jp/news/20200924_0027

方向性は整理されつつある。それをどのように人々の間で「共通の価値」としていくか。広井良典・京都大学教授は、AIを活用して2050年の日本に向けたシミュレーションを行った結果、最も本質的な分岐は「都市集中型」か「地方分散型」かにあり、しかもその後戻りできない分岐は2025から27年に起こるとしている(ガバナンス8月号)。

持続可能な未来を選び取るために、残された時間は多くはない。

(「日本再生」497号 一面より)