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「がんばろう、日本!」国民協議会

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Index 

  • 「コロナ後」にむけて、強靭な民主主義を鍛えよう

●民主主義の復元力を育む自治と協働の場―コモンズの形成を

●底の抜けた社会を立て直す 権威主義に打ち勝つ〈強靭な〉社会を

  • おすすめの本(「くじ引き民主主義」)と映画(「香川1区」)

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「コロナ後」にむけて、強靭な民主主義を鍛えよう

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【民主主義の復元力を育む自治と協働の場―コモンズの形成を】

去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの(高浜虚子)

コロナ禍も三年目に入る。マスクやオンライン・ミーティングが「新しい日常」として定着する一方、コロナ禍があぶり出した私たちの社会の矛盾や構造問題に向き合うための、私たち自身の当事者性はどこまで鍛えられ、あるいは準備されてきただろうか。

たしかにコロナ禍は私たちに価値観の転換を促している。同時にリーマンショックや3.11がそうであったように、社会の価値観を大きく変えざるをえないような「出来事」であっても、それが「受動的出来事」に終わってしまえば、むしろ災時便乗的に旧い価値観が再強化され(例えば国土強靭化や「新しい資本主義」のように)、人々は無力感とあきらめに陥ることになる。

コロナ禍での経験や教訓を歴史的な転換にむけて能動的に受け取るためには、変革のビジョンとともに、それを伝える新しい表現を創り出さなければならない。そのためには、「これは私たちの問題だ」という当事者性を共有する場―コモンズの形成が不可欠だ。

「民主党政権のときに『新しい公共』と言われていましたが、新しい公共をどうつくりだしていくかが、次の選挙も含めた勝負ではないかと思います。(青空対話集会のような)公の場に市民が参加して発言し、問題について議論し、政治家がそれを聞いたり答えたりするというアクティブな公共空間をどれだけ作れるかは、きわめて重要だと思いますね」(佐々木寛・市民連合@新潟共同代表 9面)。

 コロナ禍では民主主義も試練にさらされてきた。それは、民主主義体制より権威主義体制のほうがパンデミックに「有効に」対処できた、という話ではない。これについては、「データの透明性の影響などを考慮すると、民主主義と比した権威主義国家のコロナウイルス対応における優位は認められない」ことが論証されている(例えば、安中進「民主主義は権威主義に劣るのか? コロナ下の政治体制を分析する」中央公論8月号)。試されているのは民主主義の復元力であり、それを可能にする社会的な関係性の豊かさとでもいうべきものだ。

言い方を変えれば、権威主義と民主主義の対立というものがあるとすれば、それは政治体制をめぐる対立というよりも、権力によって生かされる生(ライフ)や、そうしたあり方に対抗しうる社会のありかたとは何か、ということではないか。例えば公衆衛生のためにはビッグデータやAIの活用は当然であるが、問題はそれを統御する民主的なシステム、さらにいえばそれを可能にする自治や人権といったものを、社会の中でどれだけ具現化しうるかということだろう。

その意味でも、権威主義の代表とされる中国についての「中間団体を排除して市場を中央政府が直接監督し、大企業や政府が一体になってデータ管理や流通を進めるイメージですね。これは『資本主義的発展自体を見直している』とは言えず、むしろ中間団体の解体という新自由主義的な流れに沿ったものと理解すべきでしょう」(梶谷懐 日経ビジネスオンライン12/15)という指摘は、示唆に富んでいるといえる。

 先進国を中心にグローバル化や脱工業化の下で進んできた中間団体の解体は、第二次大戦後の民主主義―代表制民主主義が機能不全に陥っているひとつの要因だ(511号 吉田徹先生インタビュー参照)。民主主義の復元力のためには、旧来の中間団体に代わる社会的な関係性の豊かさ―自治と協働―を創造することが不可欠だ。

 選挙もまた、こうしたコモンズを形成していく場のひとつ、その糸口としていくことが必要だ。それは「数で決着をつける」「多数を取れば何をやってもいい」という多数決民主主義から、民主主義は合意形成のプロセスであるという民主主義観の転換でもある。

「集計民主主義である選挙では、数を足し合わせて多数派を取った方に正当性があるとされます。それが今の民主主義の基本ソフトになっているわけですが、そうではなくて、平場で平等な関係の人たち、しかもたまたま選ばれた人たちが話し合いながら決めていく。そういう民主主義の実践もありうるということです。

選挙民主主義や競争に基づく民主主義は、どちらが優れているか、どちらが正しいかを競い合い、多数を取った方がそれを決めていいということです。それに対して熟議民主主義というのは、あなたはこの国の主権者ですという資格だけで、何が正しいかをみんなの合意で導く民主主義です」(511号 吉田徹・同志社大学教授)。

ここではお互いの違いや多様性を前提に、フラットな関係性の中で対話と議論を重ねていくための民主主義の作法、リスペクトの政治文化を創り出していくことが問われてくる。

 九回大会(2019年)では、民主主義観の転換ということから「選挙を変える」という方針を提起したが、こうしたコモンズのひとつとして選挙を作り上げていくための実践知が見え始めてきたのではないか。それをさらに「共有知」とし、新しい政治文化へと育んでいきたいものである。

【底の抜けた社会を立て直す 権威主義に打ち勝つ〈強靭な〉社会を】

 北京五輪の外交的ボイコットが呼びかけられるなど、人権や民主主義をめぐる米中間の対立が激しくなっている。中国の人権状況が深刻であることは確かだし、香港の「自治」を解体した中国の台湾に対する圧力を看過すべきでないことも確かだ。

 同時に中国を批判する側には、人権や民主主義を政治的対立のためのレトリックとして掲げているのか、普遍的価値として掲げているのかも問われる。

「人権外交を掲げることは、簡単なことではありません。人権を掲げるような道義的な立場にあるのかどうか、人権を掲げる側だからこそ、もう少し自己批判的な視点があってしかるべきだと思います。

・・・アメリカと同様、日本も、国際社会で人権を掲げられる立場にあるのかということは、やはり自省しなければなりません。人権を大事にする国家だというのならば、やはり、国際社会からも深刻な懸念が寄せられている、入管での外国人の長期収容問題や暴力の問題は、正面から向き合って、人道的に解決していくべきでしょう。人権というのは普遍的な価値なので、自国に都合のいい時だけ、単に相手を批判する時だけ大々的に掲げるものではあってはならないと思います。

もちろん純粋に人権を掲げて追求できるほど、国際政治は甘くありません。私も外交のツールにすること自体が悪いとは思いません。しかし、あまりにも恣意的に乱用すると、それでは中国政府による『人権』の語り方や使い方とどう違うのか、という話になってしまう。最近は中国も、『中国型の人権』といった語りをするわけです。『人権』を掲げながら、自国による人権侵害にはまったく無頓着な中国との違いを見せるためにも、国際社会にダブルスタンダードと見られることのない適用を心がけていくべきです」(三牧聖子・高崎経済大学准教授 511号)

人権や民主主義というレトリックで中国の脅威を煽る図式は、戦前日本の好戦的世論であった「暴支膺懲」(暴虐な中国(支那)を懲らしめる(膺懲))にもつながりかねない。偏狭で排外的なナショナリズムを煽るのは「中華民族の偉大なる復興」という中国共産党のスローガンと表裏一体だろう。こうした脅威に打ち勝つ社会の強靭さこそが問われているのではないか。

「(香港民主派の)郭氏はもう一つ重要なことを語った。民主主義に関して合意できない分裂した社会は、権威主義とその脅威に打ち勝てないのだと。天安門事件当時、香港人は固く団結して民主化運動を弾圧する中国に強く抵抗した。時が経ち、香港社会は親中派と民主派などの分断が顕著になり、貧富の差も拡大し続けた」(阿古智子・東京大学教授 産経「正論」11/19)

「日本社会は、〈社会経済的発展の減速→政策的選択肢の減少→政治参加の縮小→社会経済的不平等の拡大→社会経済的発展の減速〉を繰り返していると言われる。日本社会に広まる政治的無関心、特に若い世代の投票率の低さは、この悪循環に突破口を見出せないという悲観的な見方があるからなのか。コロナ禍によって社会経済的不平等はさらに拡大している。

国民の主体的な政治参加を促進できなければ、日本が戦後懸命に築き上げた民主主義と平和が維持できなくなる。今こそ、危機意識を高めるべきだ」(同前)。

コロナ禍が長期化するなか、支援団体が行う食料配布や相談会に訪れる困窮者はますます増えている。女性やファミリーなど以前は見られなかった人々も目に付く状況を、支援関係者は「社会の底が抜けている」と表現している。日々の生活に汲々としていれば、「投票どころではない」となるだろう。また「生活が苦しいのも自己責任だ」と刷り込まれていれば、はじめから政治をあきらめてしまうだろう。「明日が今日よりよくなるなんて思えない」日常のなかでは、他者を思いやる余裕もなくなるだろう。こうした脆弱な社会では、民主主義について合意することも難しくなる。

「社会というものはない。あるのは個人としての男と女と家族だけだ」というサッチャー元英首相の言葉に端的なように、新自由主義は社会を解体してバラバラな個人を市場競争に投げ込んできた。社会の解体とは中間団体の解体であり、社会保障などの相互扶助の解体にほかならない。そこでは個人は市場価値でしか評価されず、最低賃金で働くしかないのも自己責任とされてきた。コロナ禍で明らかになったのは、その行きついた姿だ。

 コロナ危機で問われているのは分配の多寡ではなく、抜けてしまった社会の底を立て直す――全ての人の暮らしを「健康で文化的な最低限度」(憲法25条)のレベルまで下支えするのが政府の責任である、という理念と政策だ。「コロナ後」に向けて、抜けてしまった社会の底をそのままにして「成長と分配の好循環」を語るのか、それとも自治と協働の社会経済的基盤たりうる「社会の底」を立て直すビジョンを語るのか。参院選そして23年地方選に向けて、こうした論点を浮かび上がらせるような公共空間をつくりだしていきたいものである。

右肩上がりの時代の依存と分配の民主主義も、「今だけ、自分だけ」の新自由主義も、社会的な観点がないので「すべては自己責任」ということになる。頼れるのは自分だけ、という価値観がコロナ禍で限界に達し、声を上げ始めた人々を「コロナ世代」と呼ぶとすれば、彼らはコロナ禍での自分の経験を通じて〝いのちとくらし〟とつながる経済なのか、〝いのちとくらし〟から見て機能する政治なのかという感性を、右肩上がり世代やバブル世代よりはるかに鋭く持っているだろう。

〝いのちとくらし〟を他人任せにはしない、カリスマティックな指導者や政党に何とかしてもらうのではなく、少なくとも自分の人生は自分がオーナーだ、というところからうまれる新たな社会的紐帯をいかに育んでいくか。そこから、人口減や気候危機などの構造的難問に向き合うことができる強靭な民主主義を鍛えていこう。

 (「日本再生」512号一面より)

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おすすめの本と映画をご紹介

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●本 「くじ引き民主主義 政治にイノヴェーションを起こす」光文社新書  吉田徹・著 

本気で考えたい「くじ引き民主主義」政治にイノベーションを起こすには?(SmartFLASH) – Yahoo!ニュース

●映画 「香川1区」 

「なぜ君」の続編ともいうべき映画。2021年総選挙での「香川1区」を通して、一人ひとりの民主主義を問う。

映画「香川1区」公式サイト|大島新監督作品 (kagawa1ku.com)

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