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「がんばろう、日本!」国民協議会

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Index 

□  〝いのちとくらし〟の当事者性から、「機能しない」政府に政治責任を取らせよう

●「機能しない」政治―政府の不作為を問うフォロワーシップを

● 誰かの「困り事」を「私たちの問題」として共有する当事者性を呼び起こす

□  第九回大会第七回総会【会員限定】のお知らせ

□  お知らせ

(都議選、映画「東京クルド」、オンライン講演会「人権活動家が語るミャンマーの今」)

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〝いのちとくらし〟の当事者性から、「機能しない」政府に政治責任を取らせよう

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【「機能しない」政治―政府の不作為を問うフォロワーシップを】

2021年の東京オリンピックは、後にどのように記憶されるだろうか。「国民が一丸となってコロナ禍に立ち向かった」「日本選手の活躍に日本中が勇気と感動を分け合った」という〝感動〟ストーリーとして? それとも「国民の命を賭け金にした菅政権の政治的博打とIOCのぼったくりビジネスで国民生活に大打撃」という〝悲惨〟なストーリーとして? あるいは「〝失われた三十年〟の膿を出し切る転換点だった」と言えることになるか。

今では栄光と感動のストーリーとして記憶されている1964年の東京オリンピックも、当時は不祥事や汚職が絶えず、世論調査で都民の半分近くが「自分には関係ない」と答え、世間の声は「オリンピックより生活の改善を」だったという。しかし普及し始めていたテレビでの連日の放送もあって、大会が開催されるや「感動の物語」に置き換えられ、その後の高度経済成長とともに「栄光の記憶」となっていった。

「あのレガシーをもう一度」という人々は、今回も「開催さえすれば、国民は盛り上がる」(政府の失策や不作為は忘れる)とうそぶいている。コロナ禍以降、政府の問題解決能力のなさ、国民軽視の姿勢を散々見せつけられてきた私たちは、2021年も「感動」で盛り上がって、取らせるべき政治の責任を棚上げしてしまうのか。試されているのは、私たちの民主主義の生命力にほかならない。「政治なんて誰がやっても変わらない」と誰かにお任せするのではなく、自分たちの手で〝いのちとくらし〟を守り、次世代に持続可能な社会をつなぐことができるか。

五輪の開催については「中止」「再延期」を求める輿論が多数にもかかわらず、IOCは「緊急事態宣言下でも開催」と言い放ち、菅政権は「国民の安全が第一」と言いながら安全の基準も示さず、説明もせず、専門家の提言を「越権行為」と切り捨て、世論に耳を傾けるポーズさえ示さず、「開催一択」で押し進めてきた。

科学的知見に基づく専門家の意見が、政治家の判断と異なることはありうる。だからこそ、決定については政治家の責任こそが問われるべきなのだ。

牧原出・東京大学教授は次のように指摘する。

「政治家は自己正当化と見せかけて、他の誰かへと責任転嫁し続けている。そんな中で・・・専門家は提言を出す上で自分たちの役割はリスク評価をすることだと宣言し、決めるのは政治の責任だとはっきりと言いました」。

「今夏の五輪開催にこだわるのであれば、信念を持って『何か起きれば総理を辞める』くらいの覚悟を示して進めるべきでしょう。でも、そのような覚悟も見えません。誰の目から見ても感染者が増えることが予想される中で観客を入れることにこだわったり、五輪を開催した場合のリスクについて専門家に諮問しなかったり、色々と不可解です」。

「政治が専門家の提言をすべて取り入れる必要はありません。ただし、取り入れないのであれば取り入れないなりの理屈が必要です。しかし、政府は合理的な説明をしないまま、パンデミックでの五輪開催に突入しようとしています。それは、多大な被害を伴う可能性をはらんだ壮大な社会実験となるでしょう」。

「菅首相はイベントによる政権浮揚に博打のように賭けてきました。IRもGO TOキャンペーンもその一環といえるでしょう。いわば『イベント権力主義』が、ここまで五輪開催に固執する理由だと思います」。(https://www.buzzfeed.com/jp/yutochiba/olympics-teigen-makihara

 国民の〝いのちとくらし〟を賭け金に博打を打つ「イベント権力主義」の政治責任を、私たちはどう取らせるのか。アスリートに感動したり応援したりするのは自然なことだが、それと「政治家に取るべき責任を取らせる」ことはまったく別のことだ。その仕分けが出来なければ、「みんなで感動」か、その裏返しとして「一億総ざんげ」になるしかない。

 政府や組織委が他人事のように責任転嫁を繰り返すなか、首都圏では千葉県知事と埼玉県知事が、午後九時以降は無観客でと強く要請している。大野埼玉県知事は報道番組で、「最後は感染防止に、法律上の権限を持っている知事が腹くくって、どうオリンピック委員会・パラリンピック委員会・組織委員会が言おうと、責任上それしかないですから。そこはもう腹くくるつもりではいます」と述べている。政治責任を明確にするとは、こういうことだろう。

 果たすべき責任を政治に取らせるためには、少なくとも自分たちの〝いのちとくらし〟は他人任せにしない、というフォロワーシップが不可欠だ。「他に選択肢がない」「野党が頼りない」と他人称で愚痴をこぼしているあいだは、取るべき責任を政治に取らせることはできない。

コロナ禍は、〝いのちとくらし〟が政治と密接に結びついていることを意識させた。ワクチン接種では、場当たり対応を繰り返す官邸に振り回されながら、各自治体が(災害対応での教訓も生かしながら)奮闘してきた。このなかで、機能する自治体/機能しない自治体の違いも見えてきた。「誰がやっても同じ」ではない。

あるいは飲食店に対する時短協力金の未支給率。5月末時点で埼玉県は7・1パーセント、千葉県は58・5パーセント、東京都は45・8パーセント(ポリタスTV  6/25)。母数の規模の違いはあるとしても、やはり「誰がやっても同じ」とは言えないだろう。(千葉県は3月までの「機能しない」森田県政のツケもあると思われる。)

安倍政権は「やっている」感で取り繕ってきたが、菅政権では政治の劣化とともに「イベント権力主義」がむき出しになってきた。医療体制など課題が整理されてきたにもかかわらず、昨年末からのコロナ対策は場当たり、後手後手で、「五輪ありき」に終始した。この政府の不作為(やるべきことをやらない)の責任を問うことなしに、機能する政府をつくることはできない。

「機能しない」政治―政府の不作為を問うフォロワーシップのうねりを。

【誰かの「困り事」を「私たちの問題」として共有する当事者性を呼び起こす】

コロナ禍は、〝いのちとくらし〟が政治と密接に結びついていることを意識させた。「自分ががんばるしかない」と思い込んできた世代のなかからも、自己責任では限界だ、これは社会の問題だという声が上がるようになり、多少なりとも政治を動かすことにつながるという経験も生まれた(例えば7―8面 大内裕和・中京大学教授)。そこでは「自分は困っていないけれど、困っている友だちや地域の人のために」という社会的連帯の芽も生まれている。

 あるいは選択的夫婦別姓や、性的マイノリティーへの差別を禁止する法律・条例の制定に圧倒的多数の人が賛成しているのも、それが困っている当事者のためだけではなく、そういう社会が自分たちにとっても住みやすいという理解が広まっているからだろう。〇〇問題の当事者(困っている人)ではなくても、この社会をつくっていくということでは間違いなく当事者なのだからと。

 森氏(オリ・パラ元会長)の「わきまえた女性」発言が単なる失言→炎上→辞任→幕引きで終わらなかったのも、発言を批判するだけではなく「これは私たちの社会の問題だ」と受け止める声が、世代や性別を超えて広がったからだといえる。

 コロナ禍では、これまでにあった社会の分断がさらに顕在化される一方で、新たな社会的な連帯の芽も生み出されている。その芽をさらに育んでいくためには、社会の問題を提起/指摘するだけではなく、それを「私たちの問題」として共有する当事者性を生み出していくコミュニケーションが重要になる。

 例えばコロナ対応で「機能する自治体」に問われた自治の底力は、市民の不安に対応する情報発信力やコミュニケーションでもあったという松本・前和光市長は、SNSでのコミュニケーションについて、次のように述べる(4―6面)。

「分かりやすい例で言うと、小池東京都知事は劇場型というか、マスメディアを使って発信していますが、それはじつは市民には身近に感じられないのではないか。一方、千葉の熊谷さんは市長のときからSNSを使ってかなりきめ細かくコミュニケーションをしますから、見ている人にとっては疎外感がないと思います。小池さんはコミュニケーションをとっているつもりでも、見ている人には疎外感が残ると思います。

コロナ対応で一番評価が分かれるとすれば、この疎外感が残る情報発信、コミュニケーションなのか、疎外感が残らないコミュニケーションなのか、というところではないかと思います」。

疎外感が残らないコミュニケーションは、テクニックやノウハウでできるものではない。あなたの声は届いているという応答とともに、私たちみんなの問題としていっしょに向き合おうという当事者性を呼び起こす、そういうやりとりを繰り返すなかからこそ生まれてくるものだろう。

その和光市では女性の共感を呼び起こして、初の女性市長が誕生した。女性の投票率は47・79 パーセントと、男性の43・31パーセントを大きく上回った。「時代が女性活躍とかダイバーシティーとかを求めているということと、ずっと男性の市長が続いてきたなかで、やはり女性が疎外感を感じていたのではないでしょうか。~中略~女性候補ということが、女性が感じてきた疎外感に関して響いたのではないかと思います」(同前)。

 選挙においても有権者に疎外感が残らないコミュニケーション、候補者や政党の主張を一方的に伝えるだけではない、共感とともに「私たちの問題だ」という当事者性を呼び起こすコミュニケーションが求められる。その基盤となるのは何よりも、自治の現場における「自分たちのまちを語る」営みのなかで育まれる当事者性にほかならない(「一灯照隅」参照)。

コロナ禍は、〝いのちとくらし〟さえ「お任せ」にしてきた消費者民主主義の脆弱さを露呈させている。その行きつく先は「イベント権力主義」にほかならない。少なくとも自分たちの〝いのちとくらし〟は他人任せにしない、だからこそ政治には取るべき責任を取らせる、というフォロワーシップのうねりで、歴史の転換に向けた「穏やかなカオス」(505号参照)を作り出そう。各地の自治体選挙でその教訓を積み重ね、そのなかから来るべき総選挙を準備しよう。

(「日本再生」506号一面より)

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第九回大会第七回総会【会員限定】を、以下のように開催します。

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8月22日(日) 13時から17時

ZOOMにて

詳細は追ってお知らせします。

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お知らせ

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●東京都議選(7月4日投開票)の情勢報道の集約

戦略的投票の参考に。

東京都議会議員選挙 情勢報道集約|三春充希(はる) ⭐みらい選挙プロジェクト|note

●ドキュメンタリー映画「東京クルド」 緊急公開 7/10より

ドキュメンタリー映画『東京クルド』公式サイト|日向史有監督作品 (tokyokurds.jp)

入管法改悪は阻止したが、彼らの過酷な現実は変わっていない。

「無間地獄」は阻止したが「地獄」はそのまま、とは駒井知会弁護士の言葉。

●オンライン講演会「人権活動家が語るミャンマーの今」 

主催・アムネスティー・インターナショナル

1988年からミャンマーの人権・民主主義運動に関わっているキン・オーンマーさんの講演。

7月12日(月) 19時から オンライン 逐次通訳

国際人権NGO アムネスティ日本 AMNESTY

上記より「イベント情報」で。事前申し込みが必要。

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越谷市議会 議員有志の会 6月市政報告