「がんばろう、日本!」国民協議会

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Index 

~新たな社会的連帯の糸口へ

●民主主義の危機から、民主主義の復元力の〝始まりの始まり〟へ

●新自由主義と消費者民主主義の〝終わりの始まり〟へ

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民主主義の復元力の〝始まりの始まり〟 新自由主義の〝終わりの始まり〟 

~歴史的な転換点にするために

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【民主主義の危機から、民主主義の復元力の〝始まりの始まり〟へ】

 バイデン第46代米国大統領の就任式は、「民主主義の大義の勝利を祝福する」(就任演説)ものとなった。大統領選の結果について根拠なく「不正」を訴え続けたトランプ前大統領の言動は、ついに支持者による議事堂襲撃にまで至った。議事堂に乱入した暴徒は、憲法に従ってバイデン氏の勝利を確定しようとするペンス前副大統領を「裏切者」「吊るせ」と罵ったが、ペンス氏は「世界の国々は、我々の民主主義の回復力と強靭さを目の当たりにするだろう」と、バイデン氏の勝利を確定した。

トランプ政権の四年間は、「選挙によって民主主義が死んでいく」過程でもあった。その帰結ともいうべき議事堂襲撃の後に、アメリカの立憲主義と民主主義はなんとか首の皮一枚で生き延びたといえるだろう。

 就任式で朗読されたアマンダ・ゴーマンさんの詩は、次のように始まる。

「日が昇ると、私たちは自問する──どこに光を見いだせようか、この果てなき陰のなかに。
私たちが引きずる喪失、歩いて渡らねばならない海。
私たちは果敢に、窮地に立ち向かった。
平穏が平和とは限らず、「正しさ」の規範や概念が正義とは限らないことを学んだ。
それでもその夜明けは、いつのまにか私たちのものだ。
なんとか私たちはやるのだ。
なんとか私たちは切り抜け、目の当たりにしてきた──壊れてはいないが、ただ未完成の国を」

(クーリエジャポン1/21 https://courrier.jp/news/archives/229523/)。

 民主主義は「勝利」や「正義」で語られるものではなく「壊れてはいないが、未完成」なものであり、「制度化された不確実性」「紛争と協力の微妙な均衡」(「試される民主主義」ヤン=ヴェルナー=ミュラー)なのだ。民主主義は選挙を通じて死んでいくこともあるし、権威主義やファシズムとの間は「万里の長城」で隔てられているわけでもない。紛争と協力の微妙な均衡である民主主義を機能させるのは、ルール以前に社会に共有される規範とも言うべき「柔らかいガードレール」(レビツキー&ジブラット「民主主義の死に方」)であり、その復元力や自己修正力こそが民主主義の強さにほかならない。その源泉は、市民社会の自己統治の絶え間ない深化と、そこから生み出される新たな公論にある。

民主主義は、パンデミックによっても試されている。民主主義よりも権威主義のほうが事態を効率よくコントロールできていると見えることもある。例えば中国は「コロナに打ち勝った」と宣言し、主要国では唯一GDPがプラスに転じている。一方台湾は、「民主主義を傷めずコロナ抑制に成功」している。(参照:唐鳳氏インタビュー 1/14朝日)

中国、台湾ともに防疫対策に位置情報システムを活用しているが、これは治安維持のための監視システムともなりうる。公共空間における規制や統制が民主的・立憲主義的にコントロールされうるのか、それとも恣意的あるいは強権的に運用されるのか。

前出のインタビューで唐鳳氏は、デジタル技術を使うことによって、利害が異なる人々の間での議論を通じて共通の価値観を見出すことを目指すとしている。民主主義は、多様な「私たち」を創造する営みといえるだろう。その民主主義の復元力には、人々の間の紐帯―共通の価値観―、そのための社会関係資本を集積していくことが不可欠となる。

それを解体していく点で、新自由主義と全体主義、権威主義は〝共鳴〟している。

梶谷懐・神戸大学教授は、日本と中国で〝共鳴〟する新自由主義について、「端的に言えば、それまで人々がよりどころにしていた中間団体が解体された後に、いわば決して怪我をしないように遊具や砂場が工夫されて配置された『安全な公園』を政府や大企業のエリートが設計し、そこで庶民がのびのび遊ぶような社会のイメージである」と指摘している(「日本再生」500号)。

「市民が議論して、法律を作って、社会を統治していくというプロセスは、面倒くさいので、権威のある国家に委ねてしまう。ただし、ビジネスや技術開発は自由にやらせてもらう。そういう国家と市民との、ある種の取引関係がある、と考えられるかもしれません。ただ、それによって人々は物質的に「幸福」になるかもしれませんが、それが本当に「私たちの社会」にとっての幸福なのか、ということは慎重に考えていかなければならないでしょう」(前出)。

「効率」やコストを重視する新自由主義からみれば、民主主義は手間のかかる面倒なプロセスということになる。「社会学者ル・ゴフは、個人を丸裸にして不安感で覆い、不安定な地位に追いやることで防衛的・受動的な存在に押しとどめ、他人や社会に対して振るわれる『悪』に対する警戒心を解除し、結果として悪に寛容な社会を作り出すメカニズムを内包している点で、ファシズムと新自由主義は同質だとする」(吉田徹「アフター・リベラル」講談社現代新書)。

権力者が設計した「安全な公園」に生存や生活を委ねることで、「そこそこの安定」は得られるかもしれないが、個人が他者とのつながりを断ち切られ〝今だけ、自分だけ〟になれば、社会は成り立たない。民主主義の復元力を可能にする社会のあり方が問われている。

【新自由主義と消費者民主主義の〝終わりの始まり〟へ】

パンデミックは1980年代からの新自由主義のグローバル化の帰結として、持続不可能なまでの不平等の拡大をもたらしている。

国際NGOオックスファムは、「不平等なウイルス」と題した報告書で、「世界で最も裕福な1000人は、新型コロナウイルスによる損失をわずか9か月以内に取り戻したが、世界の最貧困層が損失から回復するには10年以上かかる可能性がある」と指摘。さらに、コロナ禍の中で最も利益を上げた32のグローバル企業の過剰利得に一時的に課税すれば、2020年に1040億ドル(約10兆8000億円)の税収が得られた可能性があると試算。これは中低所得国の就労者全員に失業手当を支給し、児童と高齢者の全員に経済的支援を行える額だとしている。

先進国と途上国の格差だけではない。コロナ禍にもかかわらず日経平均がバブル後の最高値を更新する一方、炊き出しや生活相談の場にはリーマンショック時には見られなかった情景が広がっている。

「会場には中高年の男性の姿に混じって、お子さん連れで来た人や若者、外国人の姿も目立っていた。話を聞くと、3人家族の全員が食べ物の確保に苦労をしており、各地の炊き出しをはしごして食料を集めている、という声もあった。

 老若男女が食事を求めて列を作る光景は、飢餓レベルの貧困が広がり、私たちの社会の底が完全に抜けてしまっていることを意味していた。それは、これまで生活困窮者支援を27年間続けてきた私も見たことがない光景だった」(稲葉剛 論座1/25)

 一言で言えば新自由主義改革は、公的な資源の配分を市場に任せることを意味していた。本来は市場の取引になじまないような財やサービス、例えば水や農地、公衆衛生などを民営化したり、収益化したりした結果、コロナ前でも公衆衛生の最前線に立つ保健所は大幅に削減され、収益化・効率化が求められた医療現場はギリギリでやりくり、〝いのちとくらし〟を支える現場の自治体は三分の一が非正規職員(ハローワーク職員が官製ワーキングプア)という状況になった。その〝底〟が抜けてしまったのだ。

コロナ禍が明らかにしたのは、〝いのちとくらし〟にかかわる領域を、市場ではなく社会共通資本として「共同」で維持管理する必要があること、そのためには民主主義や自治による合意形成―共同の政治的意思―が不可欠である、ということだろう。

 新自由主義は共同の政治的意思をつくりだす営み―政治―を面倒なものと忌避し、誰かに(市場、エリート、権力者に)お任せすることが効率的で、消費の当事者性さえ享受できればいいという〝今だけ、自分だけ〟の世間を蔓延させた。「政治的」という言葉が何かずるいこと、うさんくさいことという意味にとられ、「経済的」という言葉が何かしらプラスの意味にとられる雰囲気の帰結は、例えばこういうことだろう。

 緊急事態宣言下で可決された三次補正予算(3月までに使い切る)は、総額19兆円のうち、医療支援は4・3兆円、GO TOを含む「コロナ後に向けた経済政策」に11・6兆円、防災に3・1兆円というもの。立憲や共産はGO TO事業などを撤回し、医療機関や生活困窮者への支援を強めるよう予算の組み替えを求めたが、与党に退けられた。

 予算―税という最も公的な資源の配分が、〝いのちとくらし〟からほど遠いところにある。医療現場が「救える命が救えない」と悲鳴を上げているにもかかわらず、国民の生命と生活を守るべき政治が機能していない。ただそれは「政治という活動自体を軽視し、今のリーダーがダメなら自分たちの候補を探すでもなく、ただ酒の肴に政治家を冷笑する癖を身に着けてしまった、この社会の、多くのメンバーの責任でもある」(神里達博 朝日1/22)。

 コロナ禍では、これまで政治を政党・政治家間の権力闘争や利権争いとして、冷笑したり忌避したりしていた人々にとっても、政治が〝いのちとくらし〟に直結するものになりつつある。ただしこれまでの消費の当事者性だけを享受する〝今だけ、自分だけ〟の延長では、利害の違いを対立や敵対に転化するだけのシロモノになる。「他人との共通性や紐帯が断ち切られ、個人が自分のみ(あるいは自分の問題のみ)に関心を集中させてしまえば、他人の問題や不幸は、自分との共通性を持たないかぎり、政治の対象とならない」(吉田徹「アフター・リベラル」講談社現代新書)。

「政治的中立」や「自己責任」という他者との関係性や対話を遮断する〝呪いの言葉〟や、自己責任や自助、「既得権打破」などの新自由主義のレトリックは、三十年以上かけて社会のなかに埋め込まれてきた。〝いのちとくらし〟を自分たちの手に取り戻す―政治の復興―とともに、それを他者理解の糸口へ変換することで、社会的連帯のための社会関係資本をうみだしていこう。

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 【会員限定】第九回第五回総会(オンライン)のご案内

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第九回第五回総会をオンラインで開催します。【会員限定】

2月14日(日) 13時から17時 

今年は総選挙があり(任期は10月まで)、夏には都議選が、また3月の千葉県知事・千葉市長選をはじめ地方選挙も数多くあります。最近は地方での「保守分裂」の動きもありますが、その底流には、より大きな本質的な時代の潮目の変化が伺えます(保守分裂と言っていては見えない)。

3.11から十年、始まった転換の数々を「なかったこと」にはさせない節目の年でもあります。

歴史的転換のステージとするための時間軸、論点などを共有したいと思います。

申し込みは ishizu@ganbarou-nippon.ne.jp へ。2月12日 17時までにお願いします。

13日にURLをお送りします。

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越谷市議会 議員有志の会 6月市政報告