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メルマガ♯がんばろう、日本! №267(20.10.29)
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「がんばろう、日本!」国民協議会
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Index
持続可能な未来への選択肢とその担い手をどう準備していくか
●「デモクラシーに住みついたファシズム」の始まりか、
民主主義の復元力を鍛える新たな一歩か
●〝いのちとくらし〟と政権選択選挙をつなぐマニフェストにむけて
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消費者民主主義の破局に備え、
持続可能な未来への選択肢とその担い手をどう準備していくか
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【「デモクラシーに住みついたファシズム」の始まりか、民主主義の復元力を鍛える新たな一歩か】
菅政権の初仕事となった日本学術会議の任命拒否。会員は学術会議の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する、との日本学術会議法の規定は、内閣総理大臣は推薦された人全員を任命する(推薦されていない人を任命することはできない)という形式的任命にすぎないものと解釈・運用されてきた。ところが今回、総理は推薦されたうち6名の任命を拒否、その理由と根拠について説明を拒み続けている。
学術会議の任命が形式的なものであることは、過去の政府答弁でも明らかだ。その解釈を変えていないとしながら、「必ずそうしなければいけないというわけではない」から、実質的な任命行為を行っていいと強弁。こんなロジックがまかり通るなら、「法律はそうなっているが『必ずそうしなければいけないというわけではない』」と、恣意的な権力行使がいくらでもできてしまう。
曲がりなりにも安保法制では、閣議決定で集団的自衛権に関する解釈を変更した。そうした手続きさえすっ飛ばして、「必ずそうしなければいけないというわけではない」の一言で法が恣意的に運用されるなら、法の支配という立憲主義の基盤そのものが崩壊することになる。
法の趣旨に反する任命拒否の理由や根拠も示されていない。菅総理が官房長官時代から、人事権を梃子に権力を発動してきたことはよく知られている。学術会議人事への介入によって、学問の自由が直接脅かされたとまではいえないかもしれない。しかし任命拒否の理由も根拠も示されないままでは、政権による人事介入がどこまで拡大するのかという萎縮効果をもたらすことにもつながる。
三島憲一・大阪大学名誉教授は、「任命拒否は『デモクラシーに住みついたファシズム』の始まり」として、次のように述べる(論座10/26)。
「ファシズムという言葉で、がなり立てる教練の軍人を、そしてナチス親衛隊の将校の外套や帽子をイメージすれば済む時代ではなくなった。・・・政治権力が富裕層と結びついてできた現在の金持ちナショナリズムと権威主義は、民主主義体制を殺しはしない。骨抜きにするだけだ。消費資本主義は多少の自由と多様性を必要とする。
~中略~現在のファシズムは・・・デジタル技術を使ったソフトな監視もさることながら、テレビのニュース・ショーの気に入らないキャスターを波風立たないように降ろさせ(もう長いことやったので!)、記者たちと食事をして、都合の悪い記事を減らさせる。若い人たちの間でも政治の話を、それこそ学術会議の任命拒否問題など論じる仲間がいたら『意識高い系ね』といなすようなメンタリティがひろがっている。若い学者たちも、受けの良さそうなテーマを選ぶ。
そして政権にある者たちは、知り合いや特定の業界と結合して、理由や根拠を挙げた議論を避けて、できるだけこっそりと規制緩和や許認可を好きなようにやっていく。理由と根拠を挙げての自由な議論をやめて、『国民のために』上で決めるのがファシズムの始まりだ。
そうしたなかでは、日常生活の一定の豊かさに満足して、権威主義的な決定でも『まあ、いいか、そんなに悪くはならないだろう』と納得してしまうことに抵抗する方が、ナチスに抵抗して国外に亡命するより少なくとも知的には遥かに判断が厄介だ(勇気の問題とは別の話です)。
~中略~こうしたデモクラシーに住みついたファシズムは、大言壮語で『輝く』を連発する安倍政権より、菅政権の方が実務型の締めつけが強くなる」。
「デモクラシーに住みついたファシズム」を支える「まあ、いいか、そんなに悪くはならないだろう」という自発的隷従(西谷修 朝日8/25)は、日常生活に根ざしている。他方で「民主的社会の最大の強みは、批判に開かれ、つねに自らを修正していく能力にあります」(宇野重規・東京大学教授 朝日10/2)とするなら、こうした民主主義の復元力を鍛える場を日常生活に根ざしたところ(いのちとくらしの現場)につくりだしていくことではないか。
例えば西田亮介・東京工業大学准教授は、学術会議問題について逆説的に「今回のことで学問の自由が死ぬなら、我々はもう死んでいる」として、「学問の自由」のような大文字の議論よりもむしろ、(教育・研究をめぐる惨状ともいうべき現状と改善についての)個別具体的な論点に落とし込んだ議論と(アカデミアに対する)社会からの理解を求めることを提起している(プレジデント・オンライン10/20)。
「日本再生」埼玉読者会の報告(12面)では、自己責任論と自発的隷従/自発的選択についての議論から、「わたし」の問題を他者と共有する場として社会(世間ではなく)を形成するという視点を提起している。そこからはベーシック・サービスやベーシック・インカムをめぐる議論も、大文字の「社会保障」や「財政」の話より、「どういう社会―人々の関係性を望むのか」という「わたしたち」の自発的選択をめぐる議論になる。
民主主義の復元力にむけた転轍の場は、個別具体的な論点や課題を共有する関係性のなかからこそ、形成されてくるのではないか。自治の現場は、その重要な拠点となるはずだ。
【〝いのちとくらし〟と政権選択選挙をつなぐマニフェストにむけて】
菅総理の所信表明演説は、理念より実利という姿勢が特徴的だった。学術会議人事については一言も触れず「説明する意思なし」を鮮明にする一方、「携帯電話料金引き下げ」「デジタル庁創設」「不妊治療への保険適用」の早期実現を繰り返しアピールしたように、国民に対して理由や根拠をあげて説明責任を果たすよりも、目先の実利提供を優先する姿勢が目立つ。
その手法は、「理由と根拠を挙げての自由な議論をやめて、『国民のために』上で決める」(三島 前出)ということだろう。「上」が何を指すかは、GO TO事業での特定業者との結びつきや、各種の〝電通中抜き〟から推して知るべし。
デジタル庁も「開かれた政府」という哲学が欠落すれば、どうなるか。デジタル化は情報へのアクセスを迅速かつ安価に実現し、政府サービスの向上を促すだけでなく、政府に対する国民の監視機能の強化をもたらすはずのものだ。すでに10月から政府共通プラットフォームはアマゾンが提供するクラウドサービスに移行するというが、そもそも説明責任を果たす意思がなければ、デジタル化は「開かれた政府」とは真逆の方向に向かうのではないか。
一方、立憲民主党は次期衆院選公約の土台となる「基本政策」で、原発ゼロ社会の早期実現、公文書管理の強化と情報公開の拡充などを柱に、自民党との対立軸を明確にするという。泉政調会長は「菅総理は自助、共助、公助と言いますが、われわれは自助が先に来る社会ではなく、・・・自助、共助を支援し、そのために公助を充実させるという視点」だと述べている(9-11面インタビュー)。
コロナ危機で明らかになったのは現代社会システムの非公平性や脆弱性であり、「今だけ、自分だけ」の消費者民主主義や経済効率至上主義では、〝いのちとくらし〟を守ることはできないということだ。コロナ危機を、消費者民主主義や経済効率至上主義、新自由主義の自己責任論から転換・転轍する契機となしうるか。試されているのは、私たちの社会における民主主義の復元力だ。
転轍の場は、個別具体的な論点や課題を共有する関係性のなかからこそ形成されてくる。自治の現場は、その重要な拠点となるはずだ。
例えば、コロナ危機対策として二次にわたる補正予算が組まれ、本予算と合わせた20年度の財政支出は160兆円を超える。これらが何にどう使われ、どんな効果があったのか(なかったのか)を検証することは、議会(国会、地方議会)の重要な役割だ。
検証というと、「ムダ遣いのチェック」や「行政の追及」のような側面がイメージされるが、そこにとどまるものではない。現場で起きていることを通じて、これまでどおりのやり方では〝いのちとくらし〟を守ることはできない、ということが見えてくると同時に、そこから何をどう転換するのか、その方向性や課題も見えてくるはずだ。そうした検証をボトムアップで積み上げていくところからこそ、「コロナ後」にむけた社会構造の転換の道すじが見えてくるはずだ。
例えば地方創生臨時交付金は、短期間に実施計画を作成して申請しなければならなかったこともあり、政策目的もあいまいなまま「とにかく、もらう」という自治体が少なくなかったのではないか。旧来型の「地域経済振興」として、クオカードや「商品券」を配った自治体もあると聞く。その「効果」はどこまで検証されているか。
クオカードを使える地元商店はわずかで、幹線道路沿いの大型チェーン店で使うことになるという地域は、東京郊外にもある。地域内でお金が回らず東京に吸い上げられていくこれまでの構造が、ここでもあらわになっている。こうした検証を通じて、それでは地域内でお金が回る、外へ出ていくのを多少なりとも止める、そうした転換を図るために地域で何ができるのか、市民とともに考える機会に転じる可能性は、地方議会、地方議員にこそあるだろう。
デジタル化は否応なく進むが、その際に問われる「開かれた政府」は民主主義の基本原則だ。それを支える情報の民主化も、地域自治のなかからこそ鍛えられるのではないか。折しも「大阪市廃止、特別区設置」(いわゆる大阪都構想)についての住民投票が行われる大阪市では、基礎知識を正確に知るほど反対傾向が強くなり、賛成する市民ほど誤認しているという京都大学レジリエンス実践ユニットによる調査結果が示されている。
(http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/resilience/documents/tokoso2020survey.pdf)
ここでも必要なのは「維新批判」や「デマ批判」ではなく、情報の民主化―考える材料を提供することだ。「民主的社会の最大の強みは、批判に開かれ、つねに自らを修正していく能力にあります」(宇野 前出)。理由と根拠をあげての自由な議論のために、考える材料を提供する。地方議会におけるコロナ対策検証の意義は、こういうところにあるのではないか。〝いのちとくらし〟と政権選択選挙をつなぐマニフェストは、そのボトムアップの積み上げのなかからつくりあげられるはずだ。
(「日本再生」498号 11/1 一面より)
(総会の論点提起にかえて)
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「がんばろう、日本!」国民協議会 総会のご案内
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第九回大会第四回総会【会員限定】を開催します。
11月14日(土) 13時から17時
ZOOMにて
「消費者民主主義の破局に備え、持続可能な未来への選択肢とその担い手をどう準備していくか」
コロナ危機やアメリカ大統領選・・・資本主義の暴走と民主主義の〝危機〟に直面するなかから、民主主義の新たな復元力をどう鍛えていくか。自発的隷従から「目が覚める」とはどういうことか。その主体転換に、どのように「近づき、とらえ、結びついて」いくか。
一年以内に行われる次期総選挙にむけた問題設定や時空観をどう共有するか、ということについても議論したいと思います。