「がんばろう、日本!」国民協議会
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新たな社会的連帯の糸口へ
●〝いのちとくらし〟と政権選択がむすびつく「公論」の場を
~民主主義の復元力を鍛える
●社会に埋め込まれた新自由主義の関係性を、〝いのちとくらし〟そして自治の観点から掘り返し、
新たな社会的連帯の糸口へ
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社会に埋め込まれた新自由主義の関係性を、〝いのちとくらし〟の観点から掘り返し、
新たな社会的連帯の糸口へ
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●〝いのちとくらし〟と政権選択がむすびつく「公論」の場を
民主主義の復元力を鍛える
菅首相の高級ステーキ会食が報道されているなか、大阪市では何も食べられずに餓死した市民(母娘)の遺体が発見されている。会食が(それまで頑なに拒んでいた)GO TOトラベル一時停止を表明した当日の夜だったこと、「五人以上の会食は控えて」という政府の要請を超える人数だったことなど、政府トップのふるまいとして噴飯ものであることは明らかだが、より深刻なことは、コロナ危機下で餓死する市民がいること、その背後には収入が激減して「一日一食」でしのいでいる学生やひとり親世帯、住居を失いそうな非正規雇用の人々など、これまでは何とかギリギリで生活してきた人々にも困窮が普通のことになりつつあるという現実に対する危機感はあるのか、ということだ。
国会の承認なしに使える予備費は、今年度はコロナ対策として異例の11兆円が確保されている。医療機関への支援や雇用調整助成金の追加給付などに使われているものの、12月はじめでもまだ7兆円が残っており、ようやくでてきた使い道はGO TOトラベルの追加予算3000億円に対して、ひとり親世帯への支援は700億円。重点が逆ではないか。
ワクチン接種が始まっても、感染拡大を抑える効果をすぐに発揮するのは難しいだろう。感染拡大が収まってから実施するとしていたはずのGO TOを、経済を回すためと見切り発車する発想からは、感染症が収まらないなかでもオリンピックを強行する一方、困窮にあえぐ人々がさらに増えるという状況で総選挙を迎えることになりかねない(任期は2021年10月まで)。
「経済を回す」とは何か、何のための政治なのか。〝いのちとくらし〟を「まず自助ありき」の自己責任にしてしまうのか、主権者として〝いのちとくらし〟を自らの手に取り戻し、支え合いの公助を自分たちの声でつくっていくのか。〝いのちとくらし〟と政権選択がむすびつく「公論」の場をつくりだすことが必要だ。
転換の方向性はおおむね整理されつつある。
「総じて、右肩上がりの時代であらゆることが順風満帆だった昭和、そしてそれがうまく行かなくなり始めた平成、そしてこれからはむしろ人口は減少、経済は低成長ないしマイナス成長という中でいかにグローバルに世界を安定させ、そしてエネルギーや環境制約と調和する中で経済政策、社会政策を運営して行くか。そして政治のターゲットはGDPの極大化からむしろ環境調和と、そして国民の生活保障へとそのテーマ、テーゼを大胆に切り替える発想力が求められる。このように政策体系を切り替えたあかつきには、長期的に国民負担を真正面から議論していくだけの信頼強度、力量が政治と国民との間の「絆」として求められる。
われわれは果たしてこうした長期的な展望の受け皿になれるのかどうか。このあたりが厳しく問われますし、そしてもともと問われていたことを、コロナが非常に速い速度で決断を促し、結果を出すことを迫っている。問題を加速し、潜在化していたものを顕在化させている。大きな流れとしては、そういうふうに受け止めるべきではないかと思っています」(小川淳也・衆院議員 埼玉政経セミナー10面参照)。
問題は(望ましい)政策方向を「誰が」実現させるのかであり、それを「お任せ」する誰かを選ぶだけなのか、ともに声をあげ、議論を通じて協力して実現していく関係性をつくりだしていくのかということが、主権者運動には問われる。
「今は全部我慢して、食費や生活費のことだけを考えて生活している」。コロナ禍でバイトがなくなり困窮する学生の言葉だ。将来への期待や希望が持てないなかでは、声をあげる意欲すら失われていく。そこから生じるのは「目先の生活に追われ、無関心から諦めへとはまり込んでいく」構造であり、「自発的隷従」の〝空気〟だ。そうした苦境さえ「自己責任」とし、自分にとっては「そんなに悪くはならないだろう」と納得してしまうところから、「デモクラシーに住みついたファシズム」(三島憲一 論座10/26)が顔をのぞかせてくる。
「ファシズムとの攻防とは結局のところ、キング牧師が語ったように、「この世で本当の無知と良心的な愚かさほど危険なものはない」ということ。「良心的な愚かさ」とは「中立ぶった」ということ。日本の無党派主義もこの枠。大半の普通の人は悪いことをする能力もないかわりに、自分事で考えながら共有地(コモンズ)を耕し続けるという人格形成もしていない。〝今だけ自分だけ〟で日々をどう生きるかと。
こういう人たちに、自分の人生は自分が決定するんですよと、自己決定を通じた何らかの責任感を持つように訴え続けなければ、危機のときには行政権力にすべてを委ねることになる。~中略~左右の独裁に対して「正しいとは思わなかったけれども」と言いながら、黙るのか。自分事で考えることで、戦うことはできなくても「向こう側」には与しない、凡庸な悪の側―思考停止には与しないという問いの発し方を、そういう人たちにどう訴え、感じてもらうのか」(戸田代表 総会報告 499号)。
在日ベトナム人の「駆け込み寺」として知られる大恩寺の住職ティック・タム・チーさんは、「ベトナムには、『破れてない葉っぱは破れた葉っぱを包むべき』という言葉があります」と言う。自分事として考えるところから、「破れていない葉っぱ」としての小さな意思をどう持つか。そこから公論の輪を持続的にどうつくりあげていくか。そのために「他者に伝える」とはどういうことか、賛成・反対ではなく「ともに考える材料を提供する」とはどういうことかetcという小さな実践を積み重ねていくこと。〝いのちとくらし〟と政権選択がむすびつく「公論」の場をつくりだすためには、こうした無数の試行錯誤が不可欠だろう。
●社会に埋め込まれた新自由主義の関係性を、〝いのちとくらし〟そして自治の観点から掘り返し、
新たな社会的連帯の糸口へ
2020年はコロナ危機の下で社会運動にも転換の契機が見られた。
森友学園への国有地値引き売却を巡り、公文書を改ざんさせられ命を絶った財務省近畿財務局職員、赤木俊夫さんの妻、赤木雅子さんが真相の再調査を求めてキャンペーンサイト Change.orgで始めた署名活動が、同サイトでこの一年を最も象徴する「チェンジメーカー・アワード」の大賞に選ばれた。
「夫はなぜ自死に追い込まれたのか? 真実が知りたい」というまっすぐな思い、それだけが彼女の原動力。その正直パワーが、国会やマスコミの前で繰り広げられた厚顔無恥な忖度や屁理屈、権力者の居直りを正面から問う。その訴えは「真実を語れない」苦しさを抱える人にも届いたはずだ。
検察官の定年を延長できるとした検察庁法改正案に対して史上最大規模の「Twitterデモ」が起き、法案成立は見送りになった。このときの「#検察庁法改正案に抗議します」が、「#Twitter トレンド大賞 2020」で第二位となった。分析したデータアナリストは、ここまで大きなうねりをつくり出したのは、多数のフォロワーを持つ有名人だけではなく一般ユーザーの数も多かったこと、中身を解説している記事や法案を説明するブログを参照して拡散している投稿が多いなど、単に反射的に反応するのではなく勉強して考える姿勢が見えるとしている(ハフィントンポスト5/19)。
最初にハッシュタグを投稿した女性の話からも、賛否ありきではなく自分の小さな意思を示すこと、そして考えてもらおうという姿勢が伺えた。
その女性が社会運動にかかわるきっかけとなったのは#Me Too運動であり、フラワーデモ。そこで何よりも大切にされているのは(女性であるがゆえの)理不尽や非道な出来事に直面した人に寄り添う、「あなたは一人じゃない、いっしょにいるよ」というシスターフッドではないだろうか。だからこそ「男社会」を糾弾するというスタイルではなく、この社会の不条理や理不尽をともに変えていこう、という共有感が可能になっているのではないか。
「・・・当事者を個人としてみるのではなく、いろいろな属性の束としてみることで、そのなかには自分と同じ要素もあると気づく。例えば、女子学生が女性という生まれ持った属性で差別されるようなことは、男子学生である自分にもなんらかの点で関係があると。・・・属性の如何にかかわらず、苦しみ自体は同じようにあり得るし、その苦しみをもって他者とつながることは可能かなと思います」(富永京子 494号)。
個人の属性を越えて社会課題を他者と共有する。これはLGBTQの人たちが自治体にパートナーシップ制度を求めるなかで、子育てや介護などの地域の課題とも共有性を見出してくる、ということにも通じるだろう。(付け加えれば、こうした運動によって高齢男性議員に代表される社会に埋め込まれた差別や偏見を可視化するとともに、それを糾弾ではなく他者理解の糸口へ転じることも始まった。)こうしたところからも新しいコモンズ、公論、共有地が生み出されていくはずだ。
自己責任論や自助努力論で孤立化され、怒りや憎悪という感情によって行動するような関係性――社会に埋め込まれた新自由主義の関係性を可視化し、それを他者理解(エンパシー)と新たな社会的連帯への糸口に転じていくこと。そういう公論の場をつくりだそう。
大阪市廃止・特別区設置をめぐる大阪市住民投票では、賛成派(維新)が「制度論」と「成長を止めるな」という論点を展開したのに対して、大阪市を残そうという側は(賛否ありきではなく)市民が主権者として考えるための材料を提供することに徹した。その際には普通の人には分かりにくい「制度論」の次元ではなく、二重行政廃止と言ってここがなくなったら、今のこのサービスはどうなります? というところから「自分事」として考えられるように伝えることに徹したという(くわしくは次号で)。
例えば市立高校が府立高校になっても、建物も教員もそのままかもしれないが、市立高校は図書館が充実していて生徒の「たまり場」にもなっていたが、府立高校は行政改革で司書が配置されず「開かずの図書館」になっている。市立高校もそうなってしまうのでは?と。(大阪市の自治権を残すという住民投票の結果にもかかわらず、大阪市議会では市立高校を府に移管する条例を可決した。)
住民投票の結果もさることながら、「大阪市を残そう」という運動の最大の成果は、大阪の自治を自分事として考える市民自治を可視化し、そのための社会関係資本を生み出したことだ。もちろんこうしたコモンズは、耕し続けなければ簡単に荒れてしまう。新自由主義の側は自治で考える余地を与えず、新たな制度論(広域自治一元化、総合区の条例 2月に提案予定)で、これまで同様、政令市の自治を破壊しようとしている。
「新自由主義とナチズムは性格を大きく異にするもののようにみえる。前者は市場と個人への信頼から自由を尊ぶ思考である一方、後者は国家や民族を市場や個人よりも優先させるとみなされるからだ。
もっとも、社会学者ル・ゴフは、個人を丸裸にして不安感で覆い、不安定な地位に追いやることで防衛的・受動的な存在に押しとどめ、他人や社会に対して振るわれる『悪』に対する警戒心を解除し、結果として悪に寛容な社会を作り出すメカニズムを内包している点で、ファシズムと新自由主義は同質だとする。
他人との共通性や紐帯が断ち切られ、個人が自分のみ(あるいは自分の問題のみ)に関心を集中させてしまえば、他人の問題や不幸は、自分との共通性を持たないかぎり、政治の対象とならない。他人との共同性(社会と言い換えてもよい)があれば、人は社会を良くすることが自分のみならず、他人の境遇を改善することも期待値として行動することになる。しかし、社会が喪失されてしまえば、自分にとって良いことは他人にとって良いこと、あるいはその逆を可能にする論理は失われてしまう。
ナチスが教会やギルド、労働組合、地域社会といった中世からの伝統を持つ中間団体を解体して個人を孤立させ、そのもとでナチズムに依存せざるを得ない全体主義社会を完成させたことで、統治を貫徹させたことはよく知られている」(吉田徹「アフター・リベラル」講談社現代新書)。
「もし、『私化』でもなく、『原子化』でもなく、少なくとも『自立化』、さらに『民主化』への経路を辿りたいのであれば、いずれにしても組織や集団、『結社形成的』な志向を、個人の自由を押し殺さずに、取り戻さなければならない」(同前)。
新自由主義とナチズムは、中間団体―人々の紐帯がつくりだす社会―を解体する点で同質であり、民主主義がこれらと決定的に異なるのは人々の合意形成のプロセスであり、そのための社会関係資本を集積することを伴うという点ではないか。
こうした視点から見ると、「日中で共鳴する新自由主義」という指摘も納得がいく。
「(スーパーシティ構想を例に)これは、竹中さんが本当に中国の真似をしているというより、こうした「強い政府」によって中間団体を解体する新自由主義的改革について、テクノクラート的な発想をする人たちは基本的に同じ方向を向いているので、実現しようとすると中国でやっていることと同じようなことになる、ということだと思います。
――現代ビジネスのご論考(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75759)では、こう指摘されています。「端的に言えば、それまで人々がよりどころにしていた中間団体が解体された後に、いわば決して怪我をしないように遊具や砂場が工夫されて配置された『安全な公園』を政府や大企業のエリートが設計し、そこで庶民がのびのび遊ぶような社会のイメージである」と。
これは結局、自己決定とか自己統治を誰かに委ねるということですね。
梶谷 市民が議論して、法律を作って、社会を統治していくというプロセスは、面倒くさいので、権威のある国家に委ねてしまう。ただし、ビジネスや技術開発は自由にやらせてもらう。そういう国家と市民との、ある種の取引関係がある、と考えられるかもしれません。ただ、それによって人々は物質的に「幸福」になるかもしれませんが、それが本当に「私たちの社会」にとっての幸福なのか、ということは慎重に考えていかなければならないでしょう」(梶谷懐・神戸大学教授 5-7面)
自己責任や自助、効率や「既得権打破」などの新自由主義のレトリックは、すでに三十年以上かけて日本社会に埋め込まれてきた。これに対して新しい社会運動は、大文字の制度論や政策論よりも、「自分事」として考える材料を提供することで、社会に埋め込まれた新自由主義の関係性を可視化するとともに、それを(相手の立場で考える)他者理解の糸口へ変換することで、社会的連帯のための社会関係資本をうみだしていく。こうしたサイクルをつくりだし、民主主義や自治の共有地を耕していこう。
(「日本再生」500号一面より)
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オンライン新年会 1/24のご案内
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新しい試みとしてオンラインでの新年会を開催します。【会員限定】
2021年1月24日(日) 15時から (3時間程度)
これまで望年会の後半に行っていた各読者会の報告を、オンラインで行うというイメージです。
なるべくそれぞれのグループで集まってもらい(飲食はご自由に!)、それをZOOMでつないで交流したいと思います。もちろんソロ参加も歓迎です。
2021年は総選挙があり(任期は10月まで)、夏には都議選が、また3月には千葉県知事・千葉市長選もあります。最近は地方での「保守分裂」の動きもありますが、その底流には、より大きな本質的な時代の潮目の変化が伺えます(保守分裂と言っていては見えない)。
3.11から十年、始まった転換の数々を「なかったこと」にはさせない節目の年でもあります。
30年近くかけて社会に埋め込まれてきた新自由主義のレトリックを「転轍」していくための、凡人たちの非凡な持続活動について語り合いたいと思います。
申し込みは ishizu@ganbarou-nippon.ne.jp まで。1月22日 17時までに。
申し込みのあったアドレスに、1月23日にZOOMのURLをお送りします。
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香港民主化運動のドキュメンタリー映画「香港画」
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催涙スプレーを浴びながら撮影した香港民主化運動のドキュメンタリー映画「香港画」
監督インタビュー
上映はアップリンク渋谷、吉祥寺など。