メルマガ♯がんばろう、日本!         号外(23.5.23)

「がんばろう、日本!」国民協議会

がんばろう!日本!! 国民協議会

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Index 

□ 地方自治の担い手の交代は自動的には進まない(1)

コロナ禍で「見える化」した課題の検証を!

●はじめに―統一地方選の低投票率と女性議員の伸長―

●古い思潮を眠り込ませ、新しい思潮をどのようにして紡ぐのか

●エッセンシャルワークあるいは基本的人権を視点とする

コロナ禍での生活、運動、実践の検証を!

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自治分権研究会通信  2023/5/9

                自治分権研究会 加藤 達治

地方自治の担い手の交代は自動的には進まない(1)

コロナ禍で「見える化」した課題の検証を!

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【はじめに―統一地方選の低投票率と女性議員の伸長―】

 今回の統一地方選挙の結果明らかになった最も大きな課題は、無投票選挙区が減少しないばかりでなく、投票率が一層低下した事です。地方自治の形骸化が進んでいます。

地方選での低投票率の進行はコロナ禍前からみられていましたが、今回の選挙での低投票率の一層の進行は、人口減少の進行とともに衰退しつつある地方の現在を浮き彫りにしました。

昨年はコロナ禍の中でいったん減少していた東京圏の人口が再び増加に転じたと報道されています。引き続く地方の衰退と大都市圏への人口の集中が、国全体の衰退を招いていることを見る時、文字通り日本の国家構造の転換が待ったなしの国家的な課題であることを再度確認させた選挙でもありました。

しかし、国政では相変わらずの動きが続いています。岸田内閣は異次元の少子化対策を提起しましたが、言葉は「異次元」ですが、出てきた具体的な項目が失敗に終わった過去の対策の焼き直しに過ぎないことを見た時、政府は問題の所在に気づいていないか、気づいていてもすでに自らは新しい方策を提起でするだけの「知恵」がないか。

いずれにしても中央政府の現状の課題に対する姿勢を変えるには、私たち主権者の問題の設定の仕方、アプローチの方法を変えることによって、与野党ともに国政政党への批判の仕方も変える必要があります。

私は、現在の政治的な対立軸が「見える化」している場は、地方であり、生活の場であると思っています。この風景が反映して国政の場で基本的人権をめぐる論争がしっかり行われるべきだと思うのですが、そうはなっていません。更には、統一地方選の論戦ないしは報道のされ方を見ても、現状の問題に正面からスポットを当てるのではなく、一部を除いて肝心な点を外してなされているように思います。

今回の統一地方選で明らかになった事の、もう一つの重要な点は、担い手を変えなければならない事という事です。転換はすでに始まっています。コロナ禍が教えたことは、地方自治体は、文字通り自治体として主体的に機能しなければならないという事です。中央とのパイプ論も、今までとは自ずと意味が違ってきます。「ないものはない」と言い切って、目を世界に向けて「あるもの」を磨き上げて生きて行く胆力が、地方では要請されています。そのためには、新しい担い手が必要です。

統一地方選の低投票率が物語っている事は、投票しなかった、あるいはできなかった人々から見た場合、地方政治は身近な政治ではなく、総じて言えば遠くへだたった別の世界の出来事だという事だろうと思います。このような人々にとっては、コロナ禍の結果、東京に行かざるを得ず、あるいは、コロナ禍での地方政治の現状を見たからこそ、投票に行く気持ちにはなれなかったのではないでしょうか。

一方で今回の統一地方選で女性の首長が増え、当選した地方議会議員の女性の割合が20%を超え、議員の半数以上を女性が占めた議会も数議会誕生しました。日本全体からみればほんのわずかな、さざ波のような変化ですが、この変化は、現在の社会構造から出てきた本質的な変化だと思います。今、なさなければならない事は、この変化はどのような準備と、どのような活動方法で表面化して来たのかを分析することです。

マスコミでは維新の伸長を、国政の政局に結びつけて論じる論調が主流ですが、むしろ極めて条件が悪い中での女性の伸長こそがポイントだと思います。

【古い思潮を眠り込ませ、新しい思潮をどのようにして紡ぐのか】         

*コロナ禍が問うた日本の民主主義

         ― 自力で考え行動する日本とは?―

 危機の時、自力で考え行動する能力がなければ危機には対処できません。指示待ちでは、対処に遅れます。指示待ちをせず対処するとすれば、まずは、通常の時に培われた能力で対処することになります。通常の時の社会の有り様が、個人や組織の現状が否が応でも可視化されます。

コロナ禍では、個人のレベルで、職場や家庭のレベルで、地域社会のレベルで、政治のレベルで、自力で考え行動する能力はどうだったのかという事が問われたのだと思います。

問われましたが、コロナ禍の経験や教訓を、如何なる方法で社会的な合意へと転換していくのかまでは、コロナは教えてくれません。すなわち「如何なる方法で」という問いの中に、「どのような社会」に向かってという事が内包されていますが、この問いは人間が答えるしかありません。日本の事は私達が考え答えるしかありません。この問いの中に政治的な分岐があります。

*現在は思潮の交代期である

 ―基本的人権を基盤とした、多様性に寛容な社会へ―

2-1直面する問題の性格について

もう過ぎ去った時代の思潮が、特に政治やマスコミの世界で力があり、現在の問題に対応できていない。対応できていないばかりでなく、足を引く役割をしている。私たちが直面している現在の問題の性格は、このような性格であると私は考えます。

この際に注意しなければならないのは、過ぎ去った時代の思潮を担っている人は、特定の世代ではなく、多かれ少なかれどの世代にもいるという事です。更には、社会階層にも関係がない。日本には、現時点で問われている社会的課題に対して、ある傾向をもった態度をとっている世代や階層はいないと思います。少なくとも表面化していません。

例えば、現在労働の中で最も注目されているケア労働の過酷さと低賃金の現状を変えようとする際に、桎梏になっている思潮は、古い家庭観と性的役割分業論です。日本の政治が、桎梏となっている古い家庭観・性的役割分業論に縛られており、思潮の配置換えという意味での政治改革を今こそなすべきと私は考えますが、社会もその呪縛から自由ではありません。

しかし、古い思潮は殆ど力を失っている。古い思潮には、社会的な意味での問題解決能力はすでにない。新しい思潮は生れてはいるのですが、社会を捉え切ってはいない。その中で、人々は生活の必要から、その時その時の問題に対処し、何とか生きている。しかし、そこでは未来は押しつぶされている。

家庭観の領域では「多様性」という言葉をめぐって、既に中央政治では局面転換が出来るかどうかのフェーズです。しかし、たとえ転換したとしても、すなわち法が出来たとしても、生活の場での古い家庭観との相克は、いましばらくは変わりなく続きます。

同じことが地方政治でも言えるのではないでしょうか?すでに古い中央とのパイプ論は力を持ちませんが、古い中央とのパイプ論が力を持った時代の思考習慣が色濃く残っているのではないでしょうか? 古い残存する思考習慣は、生活の中に溶け込んでいます。生活の中に浸透している旧来の思考習慣を眠り込ませるために、人類的課題を意識しながら、新しい生活に相応する新しい地方自治論、産業政策論等々が問われていると思います。

2-2古い思潮から自由ではない現在の社会をどのようにして変革するのか

            ―民主主義に「正答」はない―

自然界でのコロナウイルスと人類との関係は、必然的に偶然を伴いながら「変動」する相互関係です。

コロナ禍の中で広範な人々に垣間見えたのは、社会の中では生活といのちに関わる問題で「正答」はないという事です。私は、次の社会を創り出すために、コロナ禍から学ばなければならない第一の事は、この事だと思います。

「正答」はないが、考えられる幾つかの答えの中から選択して何らかの「答え」を出さなければならない。ある人にとっては、その「答え」に「同意」は出来ないが「納得」はできる。「答え」が、皆で創りだしたものであれば。という事もあり得るでしょう。

そして重要なのは、民主主義では、皆でだした「答え」も常に批判にさらされる。民主主義は「批判」の過程を制度的に内包させることで、「指導者が誤る事がある」だけでなく「多数意見も誤ることがある」という事を学んだ先人の知恵が生かされています。権力の批判が出来るという事です。私は、日本はギリギリのところで民主主義の原則を踏み出さず、このような過程を歩んできたと思います。

問題は、「答え」が必ずしも一つではないという事実に人々は居心地の悪さと不安を覚えている事です。特に日本では、幼少時から批判の自由は抑圧され、既存の「正答」を如才なく答えることが推奨されてきましたから。日本には、特にバブル崩壊以降、極端に失敗を恐れる姿勢、思考習慣が出来ており「失敗」を自己責任へと切り縮める社会があります。

【エッセンシャルワークあるいは基本的人権を視点とする、コロナ禍での生活、運動、実践の検証を!】

統一地方選にのぞむにあたって、私はこの通信で、今後の医療体制を考えるうえで、コロナ禍で生じた問題点の中で是非検証しておくべきと考えた事を3点あげました。

すなわち ①初期に見られたPCR検査体制の未整備 ②ワクチン接種に際しての混乱 ③各波のピーク時の救急医療のひっ迫の3つです。現在、行政は行政なりに、医療機関は医療機関なりに、医師会は医師会なりにそれぞれが考える事項は検証され、その結果をもって今後なすべきことは何かとして互いの討議は進んでいます。当たり前の手順ですが、次への第一歩として極めて重要だと思います。

しかし、特に、医療ひっ迫の問題に関しては、現状では些末な技術的な検証に終わる可能性があります。閉鎖空間内で行われる自己検証だからです。ある医療評論家も、コロナ禍の検証をし、結論として高齢化社会を支える医療制度を創るためには医療制度の「構造的な改革」が必要であることを指摘したうえで、「民間病院中心の日本では実に難しいことである」と述べています。相当な政治力が必要です。

正確に言えば現在の政治構造では難しい。文字通り担い手を変えなければなりません。そのために政治を動かす社会運動が必要です。社会運動の中でも労働運動がカギを握ると思います。特にケア労働を問うことが出来る労働運動が。その様な運動が日本で皆無であるわけではありませが、極めて局所的であり力は弱い。

このように考えた時、私達がコロナ禍を検証するために、今、最も欠けているのは「理論学習(歴史から学ぶ事)」と「開かれた討議」だろうと思います。そして、そのため必要な「時間」です。現在までの経験の延長線上で物事が展開できないとすれば、まずは運動の中に「学習」を組み込むことだろうと思います。この作業を続けながら、新しい問題設定=新しい運動スタイルを討議のなかで創っていくことなると考えます。