「がんばろう、日本!」国民協議会

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  • 「国葬」から見る私たちの民主主義の現在地、そして直視すべきこと

●「国葬」から見る私たちの民主主義の現在地

●民主主義を機能させることなしに、衰退途上国の閉塞状況を転換できるのか

□ 総会【会員限定】のお知らせ

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「国葬」から見る私たちの民主主義の現在地、そして直視すべきこと

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【「国葬」から見る私たちの民主主義の現在地】

主要な報道各社の世論調査すべてで「反対」が「賛成」を大きく上回るなか行われた安倍元首相の「国葬」。ここから見える私たちの民主主義の現在地とは。

国葬を研究する宮間純一・中央大学教授は、「国民が分断している状況が目に見えるような形で表現されたのは、日本の国葬の歴史では初めてでした」「本来の国葬は、国全体で弔意を示さないと成立しない。今回のは国葬じゃなかったと思います」「政府は(弔意表明の)判断の責任を負いたくないから、あいまいにした。その結果、国葬の体裁をなさなくなった。国民に丸投げ状態で、踏み絵を踏まされるような自己責任の催しとなりました」と述べている(朝日9/29)。

自己責任には効用もある。「『一つの価値観を押し付けないでくれ』という考えを持つ人がたくさん出てきた。自由主義が尊重されている健全な社会だということを皮肉にもあらわした」(宮間教授 同前)。

政府が国民に弔意表明を求めることができなかった最大の理由は、内閣が独断で国葬を決定し、国民を納得させる説明をしようとしなかったところにある。「国民的合意を得る必要性、国民に対する畏れを、政権を担っている人々が感じていないということを示す決定だと思います」(高安健将・成蹊大学教授 https://d4p.world/news/18281/)。

「黙って手を合わせて見送ってあげたらいい。こんなときに議論すべきじゃない」「(国葬が)終わったら、反対していた人たちも必ずよかったと思うはず。日本人ならね」という二階・自民党元幹事長の発言は端的に、「国民的合意を得る必要性、国民に対する畏れを、政権を担っている人々が感じていないということを示す」ものだろう。

「反対」の世論を押し上げているのは、国民的合意を得る必要性を否定するこうした政権の姿勢に対する批判ではないか。戦後唯一の例とされる吉田茂の国葬では、半旗の掲揚や黙とうが指示されたにもかかわらず、国民の多数の反応は無関心だったという。それに比べて今回、反対の世論が盛り上がったのは、「内心の自由」や「国民的合意」といった民主主義の価値が、それなりに内面化されるようになってきたからではないか。

「国葬」の報道も、懸念されていたようなプロパガンダ一色とはならなかった。NHKが粛々と式典を放映した一方、民放のなかには、政府作成の安倍氏追悼映像と並行してそれを検証する映像を流したり、式典の映像とともに統一教会問題を取り上げたりするところもあった。「国葬」は強行されたのだから反対してもムダ、ではない。反対の世論をメディアも無視できなくなった結果、安倍氏礼賛一辺倒ではない番組が可能になったということだ。

逆に言えば、多くの人が声を上げなかったら、こうした批判の多様性は確保されなかっただろう。批判や検証は、民主主義を機能させるためには不可欠だ。野党にはその一翼を担う役割があることを改めて強調したい。

萩生田・自民党政調会長は「国葬」後に、「国民に国葬に取り組む政府の思いが上手に伝わらなかった」との〝反省〟を述べた。しかし、国民的合意形成のために政府に必要なのは、「思い」ではなく説明責任を果たすことではないのか。

賛否で分断されたように見える状況は、多様な意見の表出でもある。問題は、多様な意見をバラバラのまま放置するのではなく、応答性を伴った関係性へと再編成していくことだ。分断は、説明責任が果たされないまま、応答性が放棄されたまま、国民的合意を得る必要性を否定し続けるところから生まれてくる。

日本はこの十年間のうちに、公文書が改竄され、基幹統計が歪められ、国会で百回もの虚偽答弁がされるような国になった。安倍氏、菅氏、岸田首相が「丁寧な説明」という常套句を繰り返すたびに、国民にはあきらめと政治不信が募っていった。こうした負の連鎖を断ち切れるか。

「国葬に関する世論の分断や反対の高まりは、一見、ネガティブなものに見える。しかし、国葬に関する議論は、「国が決めたことだから」と疑問を封じて盲目的に従う、偽の「愛国」ではなく、私たちがどんな価値観を大事にしたいのか、共有したいのかについて、市民的な議論や批判的な思考を経た上での「愛国」―将基面氏がそうした意味をこめて敢えてパトリオティズムと呼ぶそれ―を獲得する一助にもなるかもしれない。 国葬が間近に迫る今だからこそ、国葬に関する議論をいっそう盛んに行うべきだ」(三牧聖子・同志社大学准教授 朝日新聞デジタル9/23)

このコメントが付されたニュージーランド・オタゴ大学の将基面教授のインタビュー(朝日新聞デジタル9/23)では、以下のように述べられている。

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 「今回の国葬の問題ではっきり分かったのは、日本人が日本人とは何者か実は分かっていないということではないでしょうか」

 「岸田文雄首相が説明する憲政史上最長の首相在任期間や諸外国で弔意が表明されているといった理由から、安倍元首相が日本人の理想像にかなう偉大な人物というイメージは見えてきません。しかし、そもそも我々日本人に、日本国民としての理想像は何か、『偉大な日本人』とはどのような人間かというナショナル・アイデンティティーに関わるコンセンサスが欠如している。そのため誰が国葬にふさわしいのか一致した答えを持てないのです」

~中略~

――ナショナル・アイデンティティーのコンセンサスはどのように作ればいいでしょうか。

 「日本の歴史や文化をどのように普遍的政治的価値に基礎づけるか、メディアや議会にとどまらず、社会で広く議論するべきでしょう。しかし、今の日本では政治について発言すること自体がタブーのようになっている。市民的パトリオティズムを生む基礎がない状態です。まずは、各個人が一人の市民としての自覚、良心を持つところからなのでしょう」。

  *

「国葬」での菅前首相の弔辞は、山県有朋が盟友・伊藤博文をしのんで詠んだ歌を紹介して締めくくられた。安倍氏の事務所に読みかけの状態で置かれていた、「山県有朋 明治日本の象徴」(岡義武 岩波新書)からとのこと。ここが最大の感動ポイントだったようだが、同書には次のようなくだりもある。

「彼らの政治支配は、彼らの権力意志を満足させるだけではない。支配的地位をあくまで守りつらぬくことこそ、彼らの信念によって真に義とされるのである。そのことは、彼らの闘志を鼓舞する。そして、彼らを狂暴にさえもする。歴代の「藩閥政府」が自由民権運動に対して加えた弾圧が苛烈残忍をきわめたのもまた、怪しむに足りないであろう」(岡義武「山県有朋 明治日本の象徴」岩波新書)。

私たちが大事にしたい価値観は、こういうものだろうか。

「さらに言えば、国家が行う儀式とは――私は必要ないと思っていますが――、その国家がどういうものかを表す場面だと思います。ですから本来であれば、戦後日本の民主主義とは何なのか、自由主義とは何なのか、ということを問わなければいけないと思います。そのうえで、こういう国葬のあり方はどうかという話がでてくるのであれば、検討の余地はあるかもしれません。

国葬の法的根拠とか、基準が難しいといったことは、あくまでも政治問題として議論されてきたことで、それらも重要なことですが、それだけでは本質的な議論は深まらないと思います」(宮間純一教授 520号インタビュー)。

「国葬」問題から見える私たちの民主主義の現在地。私たちは、私たちがどんな価値観を大事にしたいのか、共有したいのかという市民的な開かれた議論を始めるためのスタート地点に立っているといえる。

付言すれば、この度の「国葬」にミャンマー軍事政権の代表を招待したことは、国軍によるクーデターおよび市民に対する暴力を容認するメッセージというべきもので、私たちが大事にする価値とは相容れないものだ。エリザベス女王の国葬に際して、イギリスがミャンマーを招待しなかったことと比しても、この「国葬」がいかなる価値を内外に表そうとしているのか、改めて問われるべきだ。

【民主主義を機能させることなしに、衰退途上国の閉塞状況を転換できるのか】

「国葬」は、わが国の国際的地位の現実を否応なく可視化することで、衰退途上国としての現実をわれわれが直視できるかという機会ともなっている。

「国葬の問題は分かりやすいので多くの人も反応していると思いますが、じつは90年代後半以降、自民党が右傾化してきたなかでの現象のひとつに過ぎないと思います。国葬の問題をきっかけに、そういうところにも目を向けて考えるきっかけになれば、これからの日本にとってよいことなのではないかと思います。

 安倍元総理個人の評価云々よりも、国葬を通じて日本が今どういう状況にあるのか、これからどうあるべきかを考えるきっかけになれば、意味があると思います」(宮間純一教授 520号インタビュー)。

「もう邪道でも何でも続けさせていただくしかない」。マイナンバーカード普及のためのマイナポイントについて、河野デジタル相の会見での発言だ。これに対してサイボウズの青野氏は「やめられなくなった負け戦を見る思いです。そして、損失はさらに拡大していきます」とツイートした。衰退途上国の現実を端的に示す光景ではないか。

衰退の本質は経済力などの国力以上に、批判や検証を受け入れ、異論に応答しながら軌道修正を可能にしていくという民主主義の仕組みが機能不全に陥っているところにある。国葬のタイミングで問われるべきなのは、こうした日本の状況と、それを支えている「決まったことは仕方ない」という自発的隷従やあきらめではないか。

しかし、それではコロナ禍では自分たちの〝いのちとくらし〟を守ることはできないことも分かった。声を上げなければ、給付金の代わりに「お米券」や「お魚券」が配られかねなかったことは、まだ多くの人の記憶にあるだろう。だが「耳を傾けすぎる政治」とは言われたものの、それは応答性のある政治ではなかったことは、今回の「国葬」の件でもはっきりしている。その行きついた戯画的な光景が「邪道でも続けるしかない」という政治の姿ではないか。

 安倍氏銃撃事件は奇しくも、平成日本社会の閉塞というパンドラの箱を開けたかのようだ。中から飛び出したのは「旧統一教会」やオリンピック疑獄、アベノミクス・出口なき円安など。(最後に「希望」は残っているか。)いずれもさまざまな要因がからむ構造問題であると同時に、個別の責任(政治責任、法的責任)が厳しく問われるべき難題だ。

「旧統一教会」問題では、自民党と同協会の「政治的癒着」が次々と発覚。自民党が実施した「点検」のずさんさも際立ったことで、「断固関係を断つ」という首相の決意にも、国民の圧倒的多数が不信感を示している。国民が納得できるような検証のためには、超党派の合意が必要だ。またいわゆるカルトの定義や規制については、これまで日本の政治に希薄だった人権保障の観点が重要になる。

さらに人権保障の観点からは、旧統一教会と自民党との癒着が、ジェンダー平等や性教育に対するバックラッシュととともに進んできたことも検証されるべきだ。そして「草の根」からの活動を通じてそれが浸透してきたこと(地方議員、地方自治体への浸透)は、自治のあり方や来年の統一地方選とも連動する課題だろう。つまり国会で自民党議員を追及していれば事足りる、という問題ではない。

オリンピックについても、疑獄に発展するかは不明だが、「国葬」16.5億円(今後さらに増える?)の一千倍、1.4兆円が費消されたとする「国家的イベント」が、その経費の全容も不明なまま(関連経費を含めれば3兆円とも言われる)何人かの贈収賄事件で幕引きでは済まされないだろう。オリンピック全体でどれだけ使ったのか、またそれらの使途は適切であったのか、検証されなければならない。

また五輪ビジネスと言われるような利権構造も明らかにすべきだし、そうした構造の上で今後も右肩上がり発想の幻想の延長でエントリーを続けるのか、厳しく問うべきだろう。またオリンピックでもコロナ対策でも「中抜き」ビジネスという言葉が流布したように、契約・派遣労働に大きく依存するあり方も検証されるべきではないか。

「失われた30年」は、人を使い潰してきた30年でもある。その結果、われわれの社会はさまざまな面で「貧すれば鈍する」を地で行くようになっているのではないか。

今や衰退途上国の閉塞状況を否応なく直視せざるをえない。そこから目を逸らせ、ガラパゴス化したなかで自画自賛していても、世界から取り残されていくだけだ。

戦略もないまま開戦した大日本帝国は、自らの意思で敗戦を受け入れることができなかった。今の私たちには「ご聖断」もなければ、敗戦処理をしてくれるGHQもいない。自分たちの民主主義を機能させることなしに、衰退途上国の閉塞を転換する術はない。

この現実に向き合うところから始めよう。

(「日本再生」521号一面より)

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総会【会員限定】のお知らせ

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「がんばろう、日本!」国民協議会 第12回総会【会員限定】を行います。

11月6日(日) 13時から17時

ZOOMにて 要事前登録

申し込みは、11月4日までに ishizu@ganbarou-nippon.ne.jpまで

11月5日午後、申し込みのあったアドレスにZOOMのURLを送ります。

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